2010年11月30日火曜日

「もんじゃ」

 昨日は豊橋に寄って、夜東京入りした。
 ホテルはいつも上野・浅草・御徒町辺りを予約する。
 なぜか、この地域が庶民的で一番落ち着くのである。
 立ち飲みに入り、大阪ではほとんど味わえないホッピーを注文して、ガシラとシロ、タンといった豚肉の串焼きを頼み、その後立ち食い寿司で夕食を済ました。
 あと、モンジャを食べることができれば満足である。
 貧しい東京の小学校時代、練炭を火力にした鉄板の上で、メリケン粉とソースだけのもんじゃ焼きをよく食べた。
 確か料金が30円ぐらいで、50円出すとスペシャルで細いスルメのようなものが載せてあり、それを食べている子どもたちがうらやましくて仕方なかった。
 昔、給食のときにクジラ肉がよく出ていたので、その記憶と高級食材になったということで食べることは全くないが、モンジャだけは無性に食べたくなり、それをつまみにホッピィを飲むとき、「東京人」のDNAを感じるのである。
 
 

 

2010年11月29日月曜日

「済州島DNA?」

 昨日、学校支援者が主催しているゴルフコンペに参加した。
 この会は済州島モスルポという村出身の在日1世たちが中心となって約40年近く継続し、来年200回を迎えるという歴史と伝統のあるコンペである。
 現在1世はおらず、2,3世が中心メンバーであり、またモスルポ出身以外でも済州島とゆかりのある人なら参加資格を認めるということになっている。
 ここに参加すると2,3世にもかかわらず、不思議と済州島のDNAというのがあるのかなと思ってしまう。
 夫婦で参加している場合、女性がてきぱきしていて男性はそれをボオーと眺めていたり、一方的に女性がまくし立てても男性はそれを苦笑や皮肉でやり過ごすのである。
 したがってラウンド中はビギナーでへたくそであっても妻のプレーにはほとんど口出ししたり、その場で即席レッスンをするようなことはしない。
 まともに戦っても「傷口」を広げるだけであることが暗黙の了解となっているようである。
 やはり済州島の「三多」は「女・風・石」である。
 
 

2010年11月27日土曜日

「ちちんぷぃぷぃ」

 先週から学校で取材が始まった。
 来週の木曜日に放映予定であるが、南北の緊張がまだおさまっていないので予定通りになるかどうか、少々不安である。
 生徒たちにも今回の事件をインタビューしていた。
 昨日は早速朝鮮中学校の生徒がつばを吐かれるという事件が起きたらしい。
 昔、電車の中で「チマチョゴリを引き裂く犯人をどうにか捕まえられないかな」と朝鮮語で友人と話をしていたら、たまたま前の席に韓国から来日された女性がおられ、「今、朝鮮学校の話をされてましたね」となり、会話をした。
 彼女は「この時代にチョゴリで学校に通うなんて古くさい」といったので、「そしたら今回事件も起きていることだし、脱いだほうがいいですか?」と問い返した。
 そしたら彼女は「学校制服としてのチョゴリ着用には反対だけど、チョゴリを着てそれに対して攻撃してくるなら、脱ぐべきではない」と毅然と述べたことが印象的であった。
 現在朝鮮学校の女生徒は通学時には普通のブレザーにスカート、そして学校内ではチョゴリに着替えていると聞いた。
 この「制服チョゴリ論争」は保護者の中でも熾烈な議論が巻き起こった。
 「民族の誇りで伝統だから」という人たちに対して「そしたら男子生徒や男教員もパジ・チョゴリを着ろ。女性だけに民族の誇りを強要するな」などの応酬が熾烈に繰り広げられたことが記憶に新しい。
 娘をもつ母親からしたら、帰宅するまで心配でたまったものではない。
 妻からは「毎日しわを伸ばすために新聞紙にくるんで、布団の下に敷いていた」と聞かされた。
 私は明確に反対である。なぜかというと「制服としては機能的でない」だけの理由である。
 夏は暑いし、成長期にある女性の胸を押さえつけるのもよくない。
 卒業式とかの記念行事に着ていけば十分であり、「民族の誇り」は外形的なものではない。

2010年11月26日金曜日

「監督の決断」

 「日本少年サッカーの平和の使者が大人の喧嘩を止めてやる」というこの監督の言葉に感動した。
 そして今朝から韓国遠征に出発した。
 私は監督に「もし戦争が起きても私の息子は一番最後の船か飛行機で送り返してください(笑)」とメッセージを送り、子どもには「何かあればソウルの○○○に連絡して、一緒に避難民生活を経験してみろ」といって送り出した。
 もちろん、親として全く心配がないわけではないが、このような経験が精神的なたくましさに繋がるだろう。
 一方、日本政府というか菅直人は「朝鮮学校無償化の審査停止」を指示したと国会で答弁していたが、「教育の中身は基本的に問わない」として無償化を認めたはずなのに、本当に情けない。このような総理大臣を担いでいると、日本は本当にだめになってしまう。
 政治を教育に持ち込んだ張本人の橋本大阪府知事に批判されて当然である。
 朝鮮学校の生徒を北朝鮮との「外交的人質」にしている限り、、「拉致被害者」はいつまでも日本に戻れないことを全くわかっていない。
 
 
 

2010年11月25日木曜日

「監督の悩み」

 朝鮮半島の状況が緊迫度を増している中、日本からの観光や修学旅行が相次いで中止となっている。
 昨日のブログでも書いたように、長男の所属チーム監督もわざわざ関空にまで行き、状況を直接確認しに行った。
 明日から日本の約60名の小学生たちが韓国で交流試合をするのだが、すでに1チーム(25名)からは正式にキャンセルの申し込みがあったらしい。
 チームメイトの母親からは昨夜妻に電話があり「送るのですか?」と聞いてきた。
 監督も相当悩んでいるようだったので、「行ける子どもたちだけ連れて行ってきたら」と答えた。
 長男には「学校で先生はなんて言ってた?」と聞いたら、さすがに北を擁護することはなく、「悲しいことです」とだけと言っていたらしい。
 犠牲者は韓国人だけでなく、いろんなところに広がっている。
 「加害者」に対する怒りが収まらない。
 
 

2010年11月24日水曜日

「戦争前夜」

 南北関係の緊張の度合いが一気に増した。
 朝鮮戦争が終わって57年という歳月が過ぎたが、結局「「停戦協定」という「撃ちかたやめ」という状態に変化がないことを実感させられた。
 この一時的戦争中止状態を終結させるためには、やはり「平和協定」を締結するしかない。
 長男が今週から遠征で韓国に行くのだが、引率の監督は中止まで念頭に置いて対応をどうするか悩んでいる。
 無責任な親と思われるかもしれないが、私は「祖国」のこの緊張した空気を直接肌で感じ、日本で享受している「平和」ということについてじっくり考える機会として欲しい。
 もし「戦争」となれば、果たして韓国の日本大使館は外国人であっても「永住者」である「在日」の駆け込み寺になってくれるのだろうかとふと考え込んでしまう。

2010年11月22日月曜日

「博多」出張

 土曜日から出張で福岡に行ってきた。
 久々に旧知のR弁護士や博多の「女傑」たちと楽しいひとときを過ごした。
 もちろん最後は那珂川沿いの屋台での仕上げとなった。この屋台で心地よい博多弁を聞きながら、焼酎にラーメンをいただく時この土地と一体化したと感じる。
 釜山まで高速艇で約3時間、飛行機なら50分という地理的条件からか九州の歴史と生活は朝鮮半島との関係を抜きにしては語れない。
 そのためか、すごく親近感と既視感を与える土地と人柄である。
 日曜日は学校主催の教育講演があった。
 参加者は少なかったが、学校理事でもあり、京都造形芸術大学教授の寺脇研さんの講演は、 グローバル化と成熟社会が加速するなかで、どのような次世代教育のあり方やビジョンが求められているのかを時間軸や空間軸を大きく取り、また進展する日韓の市民・文化交流のダイナミックな動きをわかりやすく語られた。
 講演終了後に旧知の朝日新聞記者や参加者と一杯飲み、さすがに帰りの新幹線では爆睡してしまった。


 
  

2010年11月20日土曜日

「石の上にも3年」

 昨日、念願の学校法人(各種学校)認可取得に向けて大きく前進した。
 開校時がリーマンショック時期と重なり、予定していた寄付が棚上げ状態になり厳しいスタートとなった。この3年近くは自分の人生でもっとも苦しく、つらい時期であったといっても過言ではない。
 しかし、子供たちの姿に癒され、また力を得ることで乗り切ることができた。
 この国の教育制度はあくまでも「国民教育」をするなら支援をするが、そうでなければ勝手にやりなさいという考え方で一貫している。
 最近、「高校無償化」などの問題でいわゆる各種学校と位置づけられている「外国人学校」も政府レベルでの助成対象として初めて認められたが、各種学校の認可も取れていないいわゆる「フリースクール」の場合は、「高校無償化」は当然、固定資産税の免除も通学定期の学割もなく、自治体からの助成対象からもはずされている。
 学校用地も各種学校の場合でさえ、土地の安い「調整区域」では立てることができず、給食補助も当然ないので子どもたちはお弁当持参で、温かいご飯を食べさせたい母親たちが月に1回程度学校でカレーライスを作ったりしている。
 私の長女は12年間、次女は9年間、長男は6年間弁当生活であるが、朝早くから弁当を作っている妻の姿に自然と頭が下がった。
 税金は日本人並みだが、その還元は「国民」が中心である。
 結局「外国人」を大切にしない国はいつか「国民」もないがしろにするということである。
 それがいまの日本の「現住所」となっているのではないだろうか。
 
 
 

2010年11月18日木曜日

「雪岳山」と「松茸」



 10月初旬の紅葉の初期に学校の支援者に誘われて、韓国の名峰「雪岳山」を登り、、そして「松茸」の名産地である江原道にいってきた。
 日本の北・南アルプスなどの主峰とくらべると、韓国の山の岩肌が白いように感じた。地質というか岩盤の堅さなどが岩の色合いに現れるのか知らないが、日本だと燕山のような白い岩盤が多いようである。
   よくニュースで韓国の大統領官邸(青瓦台)が映し出されるが、その後ろの山が北漢山でその岩肌の白さがそうである。
 800mぐらいの低山であるが、山容がしっかりしていて、峻厳であり、他の岩山もほとんどそうである。
 それと日本の登山文化と決定的な違いは登山道の入り口や下山口にはかならず、マッコルリとチジミなどを売る店があり、登りはじめに軽く一杯、下山した瞬間にまた一杯飲めるのである。
 (日本にも頂上には売店などが結構あるのだが登山口ではあまりみかけない)、
 私は下山直後に登ってきた稜線や頂上をながめながら、マッコルリとチジミを食べるのが大好きで、すっかりはまってしまった。
 韓国の登山人口がすごく多いのもこのせいかもしれないと実感している。
 今年の松茸は豊作で去年の不作時に比べると、価格が3分の1とお買い得だといっていたが、さすがに日本にまでは持って帰る気にはならなかった。
 翌日はまた「五臺山」という別の名山を登ったのだが、昔と違ってさすがに2日連続の登山は体にこたえた。しかし、韓国料理が回復を早めてくれたようである。
 
 




 

「全米ソース王」

 「ソース」http://www.yoshidasauce.jp/ で巨万の富を築き、アメリカンドリームを実現した吉田潤喜会長が昨日生徒たちの前で特別授業をしてくれた。
 京都東九条の在日コリアン2世として生まれ、5歳で姉のいたずらから右目を失明し、19歳で渡米、帰路の航空券を500ドルで売り、中古車を購入してそこで寝泊まりしたという。
 それ以降、4度の倒産の危機を乗り越えて現在は年商200億円の企業グループを率いている。
 その逆境を乗り越えてきたオーラが生徒たちの気持ちをしっかりとらえたようである。
  「うじうじ悩むなら、まず、バスを動かせ、ガソリンが切れたら、バスを降りて、後ろからそのバスを押していけ、そうしたら一緒にバスを押してくれる人たちが出てくるのがアメリカ社会である」という言葉が印象的であった。
 
 
 
 

2010年11月17日水曜日

「カムジャタン」(続)

 昨夜のお勘定も4人で1万400円。
 生肝に生せんまい、そして豚足の辛子炒めにメーンディッシュのカムジャタン、生ビールを各自2杯程度と韓国焼酎(小瓶)2本でこの値段である。
 一人2600円である。
 昨夜は夫婦喧嘩でもしたのか、女将さんの姿が見えなかった。
 

2010年11月16日火曜日

「カムジャタン」

 今日は友人達と大阪で最高のコストパフォーマンスを発揮している韓国料理屋で食事をする。
 自家製のマッコルリもあり、たらふく飲んで食べていつもだいたいお一人2500円前後である。
 いつも不思議に思うのは伝票をつけているようでもなく、お勘定というと店でテレビか新聞を見ている済州島出身の亭主がざあっと見渡して金額を提示する。それをいつも人数割りすると一人2500円から2700円といった具合である。
 後で、夫婦喧嘩でもしていないか心配になる。
 
 
 

2010年11月15日月曜日

「放送用語」

 韓国でのG20に続き、そして横浜でのAPEC会議が終了した。尖閣と北方領土問題で日本の対応が注目されていたが、日本が「通商国家」としての生き残りを真剣に考えていないというように感じた。特に、その重要性を声高に叫んでいるマスコミの報道で気になった点があった。
 私は毎日スカパーで韓国のニュースを見ているが、韓国で地名を読み上げるときはその国で使われている発音でそのまま放送している。
 たとえば、アジア大会の開催地である中国広州を韓国では「관저우(カンジョウ)」、そして中国首脳の名前もすべて中国読みである。
 ところが、日本の報道はすべて漢字読みのみのようである。
 日本へ観光旅行に来た慶尚道の人に「ケイショウドウから来たのですか?」と問いかけるよりは、「キョンサンドから来たのですか?」と聞く方が断然親近感をもってもらえるはずだ。 
 ちなみに北朝鮮の報道では友好国の中国首脳の名前でさえ朝鮮語読みそのままであった。
 内向きの国の共通性なのか?

2010年11月14日日曜日

「母校の活躍」

 昨日、全国高校サッカー大会大阪決勝戦で勝利し、2年連続の出場を決めた。
 「あの日に帰れることができれば」という思いに駆られるときがあるが、後輩たちの活躍が35年前のグラウンドに戻してくれた。
 監督から「国籍の壁」を告げられ、そしてコーチとも全面対決して自ら去ってしまっただけに、「手放した青春の残像」を彼らが90分間見事に再現してくれた。
 準決勝では大阪朝校を下したのだが、母校と同胞の後輩たちが公式試合で対決することなどもつい最近まで想像できなかった。
 そして子どもがまたこの後輩たちと同じ道を歩もうとしている。
 サッカーというスポーツに出会えて人生が豊かになったことを実感する。
  

2010年11月12日金曜日

「初合格」

 先ほど報告があり、高3の2名が韓国の国立ソウル大学に合格した。1期生9名の内2名の結果が出たのだが、幸先がいい。彼(女)らが難関校に受かったこともうれしいが、自らの選択で結果を出したことの達成感がこれからの大学生活と人生にとってすごく貴重なものになるであろう。
 KISは進学校ではないので、生徒の偏差値で「○○大学を狙いなさい」という進路指導はしていないだけに、「学力」とはかけ離れた難関大学を希望してしまうという副作用もあるかもしれないが、結果を出せなくても出せてもそこからしっかり教訓をつかんで次のステップにつなげる「生き抜く力」が大切である。
 残りの7人もこの結果に励まされて奮発するだろうし、 「勝って驕らず、負けてもへこたれない」という精神力でこれからの受験に望んで欲しい。
 まずは、二人に心からおめでとうと伝えよう。

「国家代表」他

 寺脇研さんのブログhttp://www.f-kyoukai.com/blog01/の映画批評で最高点だった韓国映画を立て続けに2本見た。
 「国家代表」は韓国内で600万人を集めただけに圧巻であった。もう一本は「義兄弟」で南北情報員の友情を描いているのだが、前者の感動が大きすぎて後者は完全にかすんでしまった。
 この2本の映画を通じて、韓国社会の多国籍化・多文化化の実態が浮き彫りにされていた。ヴェトナム・フィリピン労働者、在米コリアン、中国朝鮮族、「脱北者」等が劇中で重要な役割を担っている。
 異質なもの同士がぶつかったり、交じり合ったするときの葛藤や矛盾によるマイナス面よりはそこから吐き出されるエネルギーのすごさを大切にしたいと思う。

2010年11月11日木曜日

「サードオピニオン」

 妻が検診で肺に腫瘍があるとされ、検査入院をすることになった。検査を受けた病院の担当医は「これぐらいれあれば緊急を要しない」と言い切った。その後入院時に便利ということで自宅近くの他の病院に移ったところその担当医からは「緊急を要するかもしれない」と脅迫めいたことを言われた。ほんの小さな腫瘍であるからなのか、こんなに同じ医者でも意見が分かれると患者はなおさら不安になって仕方ない。セカンドオピニオンどころではなくサードオピニンオンまで必要になる。

「狭き門」

9日の 午後7時からヤンマー尼崎グラウンドで小六長男のセレッソ大阪の最終選考に行った。200数十名から残った約15名のメンバーの保護者が子どもたちのプレーを真剣に見つめており、寒気の中そこだけは熱気をはらんでいるようだった。
 結果は1週間以内に連絡するということだが、帰り際にコーチかスカウトマンらしき人が近寄ってきて「ガンバも受けるのですか?選考はいつですか?」」と聞いてこられたので、「はいそうです。」と答えた。その瞬間多分セレッソは合格したのかもしれないなと感じた。

2010年11月10日水曜日

「教育立国」

 今もっとも心酔している内田樹のブログに寺島実朗さんのお話が紹介されていた。日本はこれから落ち目の政治・外交・経済の分野ではなく、まだ世界に誇れる文化をベースにして「教育立国」を目指すべきだとの主張である。
 その場合はやはり「通商国家」としてこのアジアで活躍できる人材を輩出することを目的とするべきであろう。
 そのためには、いち国家とか経済的効率性を重視した現在の教育の根幹にメスを入れることになるが、これは「仕分け作業」以上の抵抗が予想され、今の民主党では無理な気がする。