2010年12月31日金曜日

「2010年私的10大ニュース」

1、 学校法人認可申請が無事通過
2、 第1期生(高3)の海外入試組がすべて合格。
3、 チチンプィプィの放映
4、 南北の軍事的緊張
5、 お気に入りワインバーの閉店
6、 マラソンエントリー(完走ではない)
7、 鶴橋駅前への引越し
8、 長男のジュニアユースセレクション
9、 初めての松葉杖生活
10、「プリウス」の購入

 さて来年はどのような年になるのかまったく予測不可能であるが、政治も経済もそして家族と知人・友人の希望が今年よりは明るくなってほしい。

2010年12月30日木曜日

「マスコミ考}

  昨日最後の忘年会が終わった後に、旧知の新聞記者から「高校ラグビーの取材で大阪に来ているので会いたい」との連絡があり、今日の夜が最後の忘年会となってしまった。
 某大手新聞の社会部記者として朝鮮半島と在日問題にもっとも積極的であったのだが、今は「都落ち」状態である。
 「ジャーナリズム崩壊」が言われて久しいが、中国や朝鮮半島問題に深く関わり、庶民の視点で権力を牽制する記事を書ける記者達が取材現場からどんどん遠ざけられているようである。
 数日前の某新聞社説に「斜陽」という言葉で日本の凋落ぶりを論じていたが、「灯台もと暗し」である。
 まず自らの業界の斜陽性を直視・反省することから天下・国家を論じるべきである。 
 
 
 
 

2010年12月28日火曜日

「息子の決断」

 息子がJジュニアユースのセレクションを受けていたが、昨日合格との連絡があった。
 最終的にはセレクションで4名だけが合格したらしい。数百名で4名とは実に厳しいサッカー界の現実である
 ようやく、胸をなでおろすことができたのであるが、夜練習帰りの息子から、「アッパ、合格したJのジュニアユースチームには行かないことにした」と携帯に電話してきた。
 私はびっくりして「いったいどういうことや?」と聞いたら「来年新しく大阪にできるクラブチームのセレクションを受けてみる」と言い出した。
 ちょうど忘年会で一緒にいた二人の友人にその話をしたら、一人は「子どもの意志を尊重するべきだ」と言い、もう一人は「合格したチームでもまれるべきだ」と意見が真っ二つに分かれた。
 そのクラブチームは詳細がまだ何も決まっていないのだが、じっくり話を聞いてみると11月の韓国遠征時に同行した就任予定の監督に惚れこんだらしい。 
 男が男に惚れるということをすでに12歳で体験したことは貴重であるが、さぁどうしたことか悩ましい。
 

 
 
 

2010年12月27日月曜日

「7級国家公務員」

 昨日は朝から心斎橋で表題の韓国映画を妻と見た。
 ラブコメディで約2時間をあっという間にラストまで引っ張っていく。
 昼食は知人が経営する店で「ソルロンタン」を食べ、妻は友人達と葉加瀬太郎のコンサートに行ってしまい、私は一人寂しく「ヤマダ電機」でスマートフォンをあれこれ見たが、本当に悩ましい。
 夜は大学時代の同窓会があり、50歳を超えた男女が10数名集まった。
 やはり話題は子どものことと健康(禿、膝の痛み、物忘れ)で盛り上がり、そのまま2次会はカラオケ店での「歌えや踊れ」でその瞬間は30年前に歳月を戻してくれた。
 還暦の時は認知症が進行していないメンバーだけで露天風呂付きの混浴温泉旅行に行こうということになった。
 

 
 

2010年12月24日金曜日

「road number one」

 GWと年末は「韓ドラ」ファンから聞いた中でこれと思うものを短期集中で見ることにしている。
   今回選んだのは表題のドラマと後2編を選んだ。
 朝鮮戦争をテーマにしたドラマであるが、映画のようであるhttp://www.youtube.com/watch?v=FJJVUfxTm6Q
 思想や主義主張ではなく、同族同士の殺し合いが庶民の生活、そして男女の出会いと別れにどのような影響を与えるのかという視点で描かれている。
 全編20部のまだ4部しか見ていないが、久々に見た「韓ドラ」のお決まりのBGMと最後まで飽きさせないようとする素材が昔とは違ってさりげなくちりばめられいて、はまってたまるかという気構えと時間を忘れてはまってしまいたいという気持ちが複雑に交叉している。
 朝鮮戦争勃発から今年が60年。最近の情勢は「終戦」ではなく「休戦」状態の実態をまざまざと見せつけている。
 さて、途中放棄するか寝不足状態になるか自分でも楽しみである。

2010年12月22日水曜日

「連日連夜」

 足の調子もだいぶ良くなり、それを待っていたかのように今週の月曜日から年末29日まで怒涛の「忘年会」の日々である。
 昨年は「新年会にしよう」ということで、年末の盛り上がりが欠けていたのだが、今年はすこし景気が上向いてきているのか、「やけ酒」なのか場の設定が多いようである。
 学校は今日が終業式で、先生たちも年末をアメリカや韓国に帰省するようで、表情も明るい。
 生徒たちもようやく中間試験から解放され、大掃除をした後、一台しかない卓球台に群がって楽しんでおり、寄宿舎の生徒たちは近くのスーパー銭湯で疲れを癒している。
 毎年この時期は朝から晩まで「金策」に駆けずり回っていたとことを考えると、今年はのどかな学校の年末風景を眺められていることが信じられない。
 また来年からは別の試練が待ち受けているが、今だけはこの短い「嵐の前の静けさ」に心をなごましていたい。
                       (学校前の田園風景) 
 

2010年12月21日火曜日

「火遊び」

 韓国側の怒りも理解できないわけではないが、昨日の射撃訓練は挑発と言われても仕方ない。
 これ以上「チキンレース」を繰り広げると「第2次朝鮮戦争」ということも頭を掠めてしまうのだが、
北からの攻撃がなかっただけに胸をなでおろしている。
 先日、友人たちとも話しをしていたのだが、たとえば尖閣諸島や北方領土近辺で中国やロシアの軍隊が軍事演習をしたら日本はどのような対応をするのであろうかと。
 当然、外交的努力を惜しまないだろうが、それが通じないとなると自衛隊を対峙させることになるだろう。
 その段階で両者が「やるならやってみろ」という心理状態に当然置かれ、偶発的衝突などが戦線拡大となることは過去の戦争でも明らかである。
 60年前の朝鮮戦争では軍人と民間人を含めると全体で400万人~500万人の犠牲者が出たといわれている。内訳は北朝鮮側の死者250万人、韓国側は133万人で大多数が一般市民だった。
 そして人口の6分の1にあたる1千万近い離散家族が今も肉親との再会を待ち望んでいる。
 この60年間祖国の歴史は何であったのか、もう一度じっくり考えてみたい。
                                                 (今年9月の訪韓時に撮影)

 

2010年12月20日月曜日

「無事通過」

 先週の金曜日に「大阪府私学審議会」が開催され、学校法人認可申請が無事通過した。
 これで来年4月から「各種学校」としてスタートすることになった。
 この3年間は下積み生活で、これからはようやくまわしを締めて土俵に上がれる気分である。 
 そして長男は来年から中1の生活をこの学校で過ごすことになる。
 韓国やアメリカからも数名入学することになり、多様な文化や言語をもった生徒たちがどのようなハーモニーを奏でるか楽しみである。
 将来は中国朝鮮族や東南アジアなどからも受け入れて、「アジアインターナショナルスクール化」していくだろうが、生徒たちの「自尊感情」もしっかり育んでいきたい。
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2010年12月17日金曜日

「京都考」

 昨日は1日京都で過ごすことになり、長袖と半パッチのヒートテックを着込んで出かけたせいか、それほど寒さを感じることはなかった。
 さすが日本一の観光都市だけあって、この寒さでも、関東方面や中国からの観光客を多く見かけた。
 ところで、今まで数百回は来ているだろうが、観光らしきものをしたことがない。
 美しく洗練されいる町並みや、神社仏閣は素晴らしいとは思うが、どうしても作為的なにおいを感じてしまって、ぐいっと引けつけるものを感じないのである。
 うまく表現できないが、「清濁」の「濁」が極端に排除されてしまって、表面的には「無菌室」のようなのである。
 いいように言えば、「凛とした風景や人の立ち振る舞い」に触れることはできるのだが、その裏にあるものが何なのか不透明で不気味さを感じるときがある。
 「大阪人」のねたみというか劣等感の裏返しかもしれないが、やはり私は「天満」や「新世界」に身を置くとホッとする。
 
 

2010年12月16日木曜日

「接骨院」

 病院にいってもまともな治療と対応をしてくれないので、火曜日から毎日通っているのだが、この世界も技術的な日進月歩と競争が激しいようである。
  昨日初めてウォーターベッドを使用したのだが、体全体がところてんにでもなったようですごく気持ちがよかった。
 プールに浮いているような感覚で、そこを背中から肩にかけて下から「機械の手」でほぐしてくれるのである。一瞬うつ伏せになったらもっと快感が増すかもしれないと思わせるほどであった。
 その後、電気治療、上半身マッサージ、負傷部位の施術と約1時間弱で500円と低料金である。
 この周辺だけでも4件ほどの接骨院が集中していて、派手な広告をしている某店など「ダイエット」まで謳っているが、こういう「誇大広告」の店には行かないことにしている。
 思わず、「店」と書いてしまうほど、接骨院も乱立状態である。
 接骨院を経営している友人の話によると、すでに24時間営業の「店」が出てきた激戦区もあるらしい。その友人も日曜営業で月曜日を休日にしており、「散髪屋」状態である。
 「医は仁術」という言葉がなつかしく感じる
 
 

2010年12月15日水曜日

「夜の中之島」

 昨夜はどうしても延期のできない会食があり、痛い足を引きづりながら淀屋橋を梅田方面に歩いていたら大阪版ルミナリエ?に遭遇する。

 最近はこの地域が再開発されて、観光スポット的なところが増えたようである。
 東京に住んでいた頃は、大阪に帰ってきたと実感できたところがまさしくこの中之島であった。
 特に北浜から眺める公会堂と図書館あたりの風景がもっとも好きである。
 友人の弁護士事務所が絶好の位置にあり、いつも早く着いては待っている間にそこの窓から景色を眺めている。
 ところで夜の新地は景気を反映してか、人影がめっきり少なくなっていた。
 最近はここの「毒消し」によく通っていたワインバーも閉店しまい、寂しい限りである。


 

2010年12月14日火曜日

「泣きっ面に蜂」

 さすがに昨日は1日家にいた。
 ところが、持病の頚椎の痛みまででてしまい、上半身と下半身の痛みで寝たきり状態になってしまう。
 読書も苦痛なので年末にまとめて見ようとして録画しておいたBSのドキュメンタリーを数本見た。
 午前中はたまたまBS3で放映していた詩人、金時鐘氏の半生を描いた番組を見ることができた。
 数十年間、家族ぐるみのおつきあいをさせていただきながらも、全く知らなかったことが多々あり、時鐘さんの壮絶な人生が戦後の日本と朝鮮半島の歴史そのものであることを実感した。
  (今年4月に居酒屋でご一緒したときの写真)
 4,3済州島民衆抗争、朝鮮戦争、吹田事件など歴史的瞬間の現場に身を置いたからこそ、あの「言霊」のような詩句が紡ぎ出されるのだろう。
 個人的には父母との生き別れ、民族組織内での批判と追放処分など数え上げればきりがない挫折と葛藤を支えてきたものは何かと考えたとき、祖国と日本の「真の解放」がいまだなされていないことにたいする怒りであり、「報復」であると感じた。
 それにしても骨の髄まで「皇国臣民」であった時鐘さんの日本語は今でもへたくそなのが不思議でならない。
 来週またお会いして一杯するのだが、なぜそうなのか怒られることを覚悟して尋ねてみよう。
 

2010年12月13日月曜日

「年寄りの冷や水」

 初めて松葉杖を使う羽目になってしまった。
 昨日、親子サッカー大会で開始後5分で左足ふくらはぎに強烈な痛みが走り、歩行困難に陥る。
 誰かが、硬球の野球ボールでもぶつけてきたと思い、その瞬間後ろを振り返ったのだが、もちろん誰もいない。
 そのまま病院へ直行したが、2,3日安静すればよくなるだろうとの判断で安心した。
 ジョッキングである程度鍛えているからとの過信があったのだが、サッカーで使う筋肉はまったく別物であることを知らさせた。
 正直情けない。妻はもちろん、子どもにも馬鹿にされて、2,3日「寝たきり老人」状態である。
 ちょうど夕方、43歳で現役を続けているカズの特集が放映されていたのだが、ベンチ入りのときでもずっとストレッチを欠かさず、体と筋肉を暖めているといっていた。
 それが、けがを少なくするらしい。
 気持ちは「現役」でも、体はやはり「老体」であることをあらためて、そして高い犠牲を払って自覚させられた。
  

2010年12月11日土曜日

「韓国入試」

 明日は韓国内の入学希望者のための試験がソウルである。
 人数は数名程度だが、初めてということもあり、てんやわんやである。
 願書が間に合わないから当日持参するとか、受験料も当日に払うとか、日本では考えられないが、いいように言えば韓国ではそのような「緊急事態」への対応が柔軟であり、悪く言えば「行き当たりばったり」で計画性がないともいえる。
 最近は日本への早期(中・高生)留学熱は円高の影響もあり、下火になってきているが、ビジネスも学問も海外で勝負するという考え方は揺るぎないようである。
 その背景には国内市場の狭さや、競争社会における「敗者復活戦」の場がほとんどないことなどが挙げられる。
 従って、海外で事業展開するときなどは単身赴任よりは、家族で移住することが多いと聞いている。
 中国の青島周辺にはすでに韓国人が100万人近く移住してコリアンタウンが形成されているらしい。(北京や上海よりは地理的に近いせいか?)
 「受難の歴史」もあり、海外居住同胞数が約600万人もおり、、これは人口比率で中国の華僑よりも多いことになる。
 歴史的かつ地政学的にもそして気質的にも「越境民族」である。
 
 
 
 

2010年12月10日金曜日

「山の原点」

 先日東京出張の際、「雪岳山死の彷徨」にもかかわらず、唯一山仲間としておつきあいくださる先輩に誘われ山梨県の「乾徳山」(2031m)に登った。

 この山は20数年前、登山を本格的に始めるきっかけとなった「原点」である。
 10数名の若者を中心に、夜行列車で到着して、明け方から雨の中を黙々と歩き、昼には登山口に戻り、そこで持参してきたカンテキ(七輪)で肉を食べ、その後塩山駅前の温泉に入った。
 展望はほとんどなかったが、その時ベテランの先輩から聞かされた「なぜ山に登るのか」という話に魅了されてしまった。
 その後は取り憑かれたように、北アルプスや南アルプス、劔岳など日本の屋根を歩き回った。
 今改めて、「なぜ山に登るのか」と自問自答したら「すべての感覚が山に吸い取られ、心が裸になる快感を感じる」からとしかいいようがない。
 冬山は一度死にかけたことがあるので、来年の春まで登山はお預けで、生駒あたりの低山ハイキングを楽しもう。
 
 
 

2010年12月9日木曜日

「味比べ」

 一昨日の友人の「おでん屋」に行ってから、前から気にかけていた玉造駅前の行列ができる有名「おでん屋」に行ってきた。
 昨日、友人から率直に感想を聞かれたので「だしはよかった。ただし、具材が悪いと、だしの力でそれを変えることはできない」と言ったら、「そのとおりで、それが悩みだ」と胸中を語ってくれた。
 そのやり取りもあって「味比べ」も兼ねて 数年前ぶりにあらためて行ってみたのだが、すじ肉は180円であったが、友人の店は肉厚があるどて焼きで1本120円であった。
 当面は「おでん」を食べ歩き、自分なりの評価をその友人の店に通いながら伝えようと思う。
 次回は鶴橋で50年以上続いている「居酒屋」のおでんをじっくり味わってみるつもりである。
   その前に手ごろなセブン・イレブンからでもいいか。
 
 

2010年12月8日水曜日

「開店祝い」

 昨夜、友人が大阪駅前第1ビルで「おでん屋」さんを開業したので、お祝いに行ってきた。
 この数カ月間、関西から北陸までの「B級グルメ店」を数十軒味見して、最終的に「おでん屋」に絞り込んだらしい。
 本業は会社経営なのだが、当面夜は店長とともにこの店に張り付くというので、その意気込みには感心した。
 実際食べてみると、化学調味料は一切使用しない天然のだしで、具材も豊富で、なおかつ平均100円という値段であった。
 場所柄、サラリーマンの激戦地なのでこのような価格設定になったらしいが、50代からの新しい挑戦にエールを送りたい。

2010年12月7日火曜日

「親鸞」

 数年前からこの人物に興味を惹かれていて、五木寛之が小説にしたので読んでみた。
 煩悩だらけの私がどれほど仏教の真髄に触れることができるのか不安であったが、読み進める内に一つわかったことがあった。
 それは悟りと煩悩は表裏一体で悟りの後にまた煩悩が生じ、そしてまた悟るということを繰り返すのが仏教というか人間の生きざまであるということである。
 そして仏門に入るというのは清濁あわせ飲みながら、「清」だけをはき続けることの修行を重ねることのようである。
 そうすることによって生への執着がなくなり、同時に死への恐怖もなくなる。
 ところで、宗教界の現実は深刻である。
 「『は医者が見つめ、『死体』は葬儀屋が見つめ、『死者』は愛する人が見つめ、僧侶は『死も死体も死者も』なるべく見ないようにして、お布施を数えているといった現状がある限り、今日の宗教に何かを期待する方が無理といえよう。宗教が現場の死生観を説くことができなくなったとき、その宗教は生気が失われ、滅びへ向かうのは当然である。」と映画「送り人」のモデルでとなった青木新門さんが「納棺日記」で述べられたことが強く胸を打つ。
 
 

2010年12月6日月曜日

「初マラソン」

 来年3月20日に開催される「ソウル市民マラソン」にエントリーした。
 学生時代の後輩が昨年完走していることもあって、誘われたのであるが自身は全くない。
 実は今年の10月に開催された「春川マラソン」にエントリーをしていたのだが、仕事の関係でキャンセルとなったので、リベンジである。
 土曜日は8k、そして昨日は福岡マラソンの影響もあってか、9kと2日連続で快調なペースだった。
 問題は、1週間に最低30kは走りこめといわれているので、このノルマを達成するには夜のお付き合いを減らすしかないのだが、12月はほぼ無理である。
 来年1月から本格的にと思ってはいるが、このような意志の弱さでは、先が思いやられる。
 
 
 

2010年12月4日土曜日

「政治とスポーツ」

 ワールドカップの開催地が決まった。
 私は最初から日本と韓国に決まるとは思っていなかったし、また名乗りを上げるべきでないと考える。
 なぜか、まず日本はスポーツに政治を持ち込んだからである。
 今年の1月に日本で女子サッカー東アジア選手権が開催されたが、当時拉致担当の中井大臣が入国拒否の発言をして、北朝鮮側が参加申請をしなかった。
 これがFIFA(国際サッカー連盟)の怒りと不信を買ってしまい、この時点で日本の開催地はなくなっていたと関係筋から聞いていた。
 少し想像力を働かせば当然のことであろう。
 もし、日本が開催地となり、ワールドカップ出場国となった北朝鮮が開催直前に不参加声明をすればどのような事態になるかは明らかである。
 2002年のワールドカップが日韓同時開催となったとき南北は「蜜月」であったから、実現可能であったとも言われている。
 だから韓国も現政権の対北政策からすれば当然候補からははずれる。
 私は一度開催した国には数十年間は候補地申請をさせるべきでないと思うのだが、FIFA側は利権が絡んでいるのでそれを認めないだろう。
 「りおちゃん」が可哀想でならない。


 
 

2010年12月3日金曜日

「テレビ放映の影響」

 昨日、午後4時から「ちちんぷぃぷぃ」で当学園を10分ほど丁寧に紹介してくれた。
 こつこつと取材にこられた担当ディレクターには本当に感謝したい。
 しかしながら、「エリート校」という表現には違和感と抵抗感がある。
 もともと「エリート」とは「決定的な瞬間や重大な局面において社会的弱者や民族的少数者の側に立って戦える人」というのが私の持論なので、そういう意味での「エリート校」と位置づけられることはいいのだが、世間一般で言われているような「進学校」で「偏差値重視」とは思われたくない。
 実際にそのような進路指導も行っていないのである。
 それにしても、今朝のHPのアクセス数を見ると、普段の8倍に跳ね上がり、電話とメールの問い合わせだけでも数十件あった。
 さて、今日は最終的に学校法人認可申請書類を提出しに行く。
 これが受理されれば、来年度から念願の「学校法人(各種学校)」となる。
 いうなれば、ようやく「まわしを締めて、土俵に上がれる」のである。
 あとは、「勝ち越し」を多くしていくだけである。
 

2010年12月2日木曜日

「有志」

 一昨日「我々自身を知り、豊かさを追求し、未来を見つめる」という理念の下、在日コリアン企業人が中心となって立ちあげた[UGビジネスクラブ」の創立20周年記念行事が東京都内であり、参加した。 
 団体名称の「UG}とは「有志」をハングルでは「ユジ」というので、それをアルファベットに変換したのであるが、あらためて「志あるところに道が開かれる」ということを実感した。
 歴代の会長・役員の方々からも貴重なアドバイスを何回も頂いたこともあり、現在の活動を支援していただいているのであるが、数年前ここの理事達を引率して韓国の雪岳山で「八甲田山死の彷徨い」を体験することになってしまい、いまでも私は「A級戦犯」扱いされている。
 それも現在は笑い話で済んでいるが、そのうちの数名は今でも私と山に行ってくれない。