2010年12月7日火曜日

「親鸞」

 数年前からこの人物に興味を惹かれていて、五木寛之が小説にしたので読んでみた。
 煩悩だらけの私がどれほど仏教の真髄に触れることができるのか不安であったが、読み進める内に一つわかったことがあった。
 それは悟りと煩悩は表裏一体で悟りの後にまた煩悩が生じ、そしてまた悟るということを繰り返すのが仏教というか人間の生きざまであるということである。
 そして仏門に入るというのは清濁あわせ飲みながら、「清」だけをはき続けることの修行を重ねることのようである。
 そうすることによって生への執着がなくなり、同時に死への恐怖もなくなる。
 ところで、宗教界の現実は深刻である。
 「『は医者が見つめ、『死体』は葬儀屋が見つめ、『死者』は愛する人が見つめ、僧侶は『死も死体も死者も』なるべく見ないようにして、お布施を数えているといった現状がある限り、今日の宗教に何かを期待する方が無理といえよう。宗教が現場の死生観を説くことができなくなったとき、その宗教は生気が失われ、滅びへ向かうのは当然である。」と映画「送り人」のモデルでとなった青木新門さんが「納棺日記」で述べられたことが強く胸を打つ。
 
 

3 件のコメント:

  1. 葬式仏教に出してしまった理由について知りたいなら、「青い空」(海老沢泰久)を読んでみましょう。

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  2. ×「出して」
    ○「堕して」

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  3.  年末にでも読んでみます。
     ありがとうございます。

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