2011年6月30日木曜日

ホストマザー

 娘の通う語学学校に寄ってから、75歳の白人女性のホストマザー宅へ向かった。長年ティファニーで宝飾デザイナーをしていたらしく、家の中の装飾品が素晴らしい。

 一番の関心事は娘がこの約2カ月でどの程度英語が上達しているのかであるが、正直驚いた。
 普通に喋っている。やはり、生活を共にするということが上達の近道なのか、日常会話は何ら不自由がないようだ。
 妻も「一夜漬け」の英語を喋ろうと努力しているのだが、飛びだす言葉がなんと「韓国語」である。
 本人は「外国語」を喋らないという強迫観念からか、極度に緊張しているようで、「これは」という表現のとき、「This is」が「이것은」、「AND」が「그리고」となっているのである。
 多分、語学をつかさどる脳のキャパシティが限界を超えていたのだろう。これには一同大笑いしたのだが、キョトンとしているホストマザーに妻の姉が早速同時通訳してくれ、また爆笑の渦となった。
 初めて現地の白人女性と3時間ほどランチを共にしながら、会話をしたが(もちろんほとんど義姉の同時通訳)、「原発の放射能汚染」への心配が尋常ではなかった。
 私が「一度日本に来てください」と外交辞令のつもりで言ったが、やんわり断られた。
 

2011年6月29日水曜日

「在日」から「在米」へ

 空港ロビーでは30年前に日本からアメリカに移住した義兄の友人が出迎えてくれた。
 現在は当然アメリカ市民権を取得しているが、「韓国籍」も放棄していないし、4年に1回は家族が住む日本に戻るので、「特別永住者」でもある。そして本籍は現在の北朝鮮地域である。
 ロスではChinese,korea,ヒスパニック、黒人とそれぞれがコミニティを形成していて、その最大勢力はコリアンであるが、最近はやはりチャイニーズとインドの勢いが凄いらしい。こういうところにも国力というか経済力が現れるのがおもしろい。
 ホテルのチェックインには時間が早いので、早速、海辺に連れて行ってもらった。桟橋で不思議と釣竿を垂れている人たちはヒスパニック系の人たちばかりで 、白人は砂浜で読書か、サーフィンを楽しんでいた。
 夕食ではUCLAにこの4月から1年間滞在することになった、同じく義兄の友人で、「在日2世」の客員教授夫婦と私の娘も合流して、興味深い話をいろいろと聞かされた。
 ここロスアンゼルスは数百年前まではメキシコ領であったので、サッカーの試合などがあると、ヒスパニック系の市民たちが大挙押し寄せ、総立ちで応援するらしい。「奪われた土地」へのうっ憤をサッカーで晴らしている。
 なにかそこにはサッカーの「日韓戦」に対する「在日」の思いと共通するものがあるのだろうか。
 さて、明日は娘がお世話になっているホストマザー宅を訪問して、ご挨拶をすることになったのだが、妻がおもむろに英会話の本をとりだしながら、ぶつぶつと呟きだした。

入国審査

 関空からソウル、そしてソウルからLAまで10時間30分。義兄夫婦も一緒なのでなにかと心強い。
 特に、妻の姉は英語と韓国語の通訳・ガイド資格までもち合わせているので、鬼に金棒である。
 しかしながら、入国審査では約20年前に「スッタモンダ」があったので、ひょっとしたら入国拒否かもという不安が一瞬頭をよぎる。
 両手の指紋、そして眼紋(?)の機械が置かれていて、一人一人入念に審査を行っているので、長蛇の列である。 
 目の前の担当官は強面で、質問を投げかけたりで、きびしい表情を全く崩さないので「イヤダナァー」と思っていたら、インド人の母娘が割り込むような形というかエスコートされるようなかんじで、突然、最前列にやってきて、旅券をその担当官に提出したのだが、拒否されて別のカウンターに行かされるというハプニング。妻は横で完全にフリージング状態。
 いざ、私と妻の時になって、突然別のカウンターに入った審査官が担当者となった。温厚そうな年輩の方で、質問を2,3投げかけられたが、ゆっくり話しかけれくれたので、錆きった英語で応答して無事通過となる。この間、約1時間であったが、非常に長く感じられた。(続)
 
 

2011年6月27日月曜日

渡米

 今日から1週間「米国」に行くことになった。「銀婚式」ということで長女の留学先であるロスアンゼルスに滞在するのだが、気持ちは全くたかぶらない。
 密かに東南アジアあたりに行きたかったのだが、娘に会いたいという妻のたっての願いを断ることは不可能である。
 25年間の償いだと思えば仕方ない。
 土曜日から長男は学校の研修で韓国に行ってしまい、次女のみを残していくのが心配であるが、逆に責任感が強まることを期待するしかない。
 20年ぶりのアメリカであるが、唯一の楽しみといえばコリアタウンぐらいである。
 

2011年6月25日土曜日

免税

 NPO法人への寄付が条件付きではあるが税控除の対象となる。
 学校法人への寄付も同様だとの新聞報道があったので、すでに税控除が認められているいわゆる「一条校(正規校)」ではなくインターナショナルや民族学校の「各種学校」まで拡大されているのか早速調査しなければならない。
 もし、拡大されていないのであればあまりにも整合性に欠く。
 認可基準のハードルが非常に低いNPO法人が税控除の対象となり、それが非常に高い学校法人(各種学校)に認められないのであれば、苦労して学校法人取得をとるよりNPO法人で学校運営をするほうが負担がすくなるということになる。
 寄付をしてもらい、その寄付の税負担までしていただいている支援者の方々に「寄付は税控除されますから、その分寄付の額を増やしてください」と切り込める。
 あつかましすぎるかな?
 

2011年6月24日金曜日

減量

 最近周辺から「太った。腹が出てきた」といわれだした。体重計に乗るとやはり3k近く増えていた。3月まではフルマラソン完走という目標があったので、自己規制ができていたのだろうが、次回の目標は4ヶ月後ということもあり、「これぐらいはすぐに減らせる」という自信過剰が今の状態を招いたようである。
 来週からは夜の会食をできるだけ昼に回すなりして、夜に走りこむか、ウオーキングを始めていかないとヤバそうな気がしてきた。
 しかし、「夜の会食」を減らすのは、「フルマラソン完走」と同程度の困難さが伴うので、早朝に切り替えるしかないようだ。
 50歳を超えると排出より蓄積の力が上回ってくることと、重力のすごさを実感する。
 
 
 

2011年6月23日木曜日

みそぎ研修か?

 昨日、「某民族金融機関」主催による東日本震災チャリティゴルフコンペに参加した。
 ゴルフのスコアーは4年ぶりの80台というすばらしい結果だったのだが、この喜びもつかの間だった。 
 プレイ終了後の会食で、黙祷をささげたまではよかったのだが、その後は度肝を抜かれたというか、不快感と怒りが湧いてきた。
 いきなり支店長たち10数名が壇上で一列に並び、「社歌」を歌い、そして「スローガン」を大声で叫びだしたのである。その間約7分ぐらいだが、それは会社内の朝礼でやってくれといいたい。
 オーナーが有名タクシー会社の元経営者であるが、このような「研修」を徹底的にさせられているであろう職員たちに同情してしまった。
 別の「某民族金融機関」も昔、「肖像画」を掲げ、「指導者賛美」の歌を歌っていた時期があるが、結局破綻をして、在日コリアンに甚大な被害を与えた。
 この「某民族金融機関」も同じ運命をたどるのではないかとふと感じ、今後ここの預金は引き上げることにした。
 

2011年6月21日火曜日

在日2世

 昨夜、四捨五入すると80歳の男性3名と三重県の温泉旅館で過ごした。
 A(79歳)さんは5歳のときに母親に背負われて来日し、B(80歳)さんは15歳まで広島の呉にいて、その後韓国に帰り、朝鮮戦争に従軍して1961年に密航で再来日し、C(79歳)さんは父親を三重県の土木工事で、そして兄2名を戦争で亡くした。
 実に貴重な体験であった。それぞれ生きざまと価値観は違うが、国家と時代に翻弄された人生を直接湯につかりながら、そしてお酒を酌み交わしながらじっくり聞くことができた。さすがに、酔いも回らず、眠気もこなかった。
 3者に共通しているのは「植民地祖国」と「日本」への愛憎であった。そしてそのすさまじい体験に言葉を失い、その空間に自分の居場所はまったくなかった。その「浮遊感」がなかなか消えない。

 
 
 
 

2011年6月20日月曜日

梅雨

 父の25周忌も無事に終わった。そして全米オープンも終わり、22歳のニューヒーローが誕生した。
 今年の4月から3年近くほぼ中断状態だったゴルフを再開した。といっても、ようやく100を切れる程度だが、コースと自分自身をどれだけコントロールできるのかということにこだわるようにしてい  る。しかしパートナーによって実践では主観的欲望であったことを思い知らさせてしまう。
 さて、今日から三重県に出張である。今回は理事長のお供なので緊張してしまう。
 本格的な梅雨に入り気分はもう一つであるが、今日からの山場を越えれば、晴れ間がすこしは見えてくるだろう。

2011年6月17日金曜日

「僕たちのヒーローみんな在日だった」

 先日著者の朴一さんをお会いしたときに、表題の本をいただいた。
 よく酒場で盛り上がる芸能・スポーツ界の「在日伝説」を資料と関係者への取材等で深く掘り下げながら、「伝説」を「実話」として非常にわかりやすく書かれていて、一気に読み上げた。
 圧巻は「力道山夫人」への直接インタビューである。力道山の夫・父としての姿、南北・日本の政治に翻弄される人生など夫人の口から淡々と語られており、著者の知識と情熱が夫人の信頼を勝ち取ったのか、普段決して語ることはないであろう内容が赤裸々に綴られている。
 一押しの著書である。
 

2011年6月16日木曜日

スーパークールビズとスーパーホットスポット

 文科省では新庁舎のハイテクビルに変わっていたが、エレベーター6機の内3機はストップ状態で、応対に出た職員は、「3階までの職員は階段使用」とされているといいながら「私も8階にいますが、階段を使用している」と汗をかきながら説明してくれた。廊下も暗かった。
 後輩の会社は28度設定となっており、違反した場合にはビルのオーナーがHPに掲載すると「脅迫」していると嘆いていた。
 しかしながら、新大久保は平日だというのに40~50代の女性たちで熱気むんむんである。
 超有名豚カルビ店は30人ぐらいの女性たちが長蛇の列をなしていた。
 この街に来た中年女性たちの瞳は少女時代の輝きを取り戻しているようであった。
 

2011年6月15日水曜日

先輩の闘病生活

 東京時代にお世話になった先輩宅へお見舞いに行った。
 すぐに肉筆のメッセージを手渡された。そこには「この間の苦労になんら手助けできず申し訳ない」と書かれていた。
 5年前からいわゆる「筋委縮症」との闘病生活を続けている。歩行器がなければ歩けず、また言葉も発することができない。 しかし、まだ力が入る右手で花の絵を3年近く書き続けている。
 そのスケッチブックだけでも7冊ほどあった。
 Iパッドに過去の写真を整理していて、震えがちな指で20年前に私と一緒に写った一枚を指し示した。
 帰り際差し出された右手をみたら、小指の爪だけ伸ばしていた。「先輩、その小指は昔のままじゃないですか」といったら満面に笑顔をたたえていた。私は先輩を強く抱きしめ、「今度は私がもっている昔の写真を整理して、また来ます」と伝えた。
 帰りながら涙が止まらなかったが、悲しさではなくて、難病に侵されながらも懸命に生き抜いている姿に素直に感動したからであり、そして昔も今も変わらぬ先輩の生きざまに心を揺さぶられたからである。
 上の花言葉は「困難に打ち克つ」である。
 
 

2011年6月14日火曜日

故金敬得弁護士

 昨日から東京出張である。
 学園の設立発起人の一人である故金敬得弁護士の自宅を訪問して線香をあげた。
 韓国籍の在日コリアンとして司法試験に合格し、最高裁の重い扉を開いて、弁護士の国籍条項を撤廃させた。
 私が大学に入学した、たしか1977年だったと思う。 記者会見で「在日60万の人権のために闘いたい」と眼光鋭く訴えていた。
 2005年にお会いしていなければ、多分「学園」は誕生していなかったであろう。
 ちょうど東京都の韓国籍公務員の管理職問題で最高裁での判決が出るその日に事務所で昼食をともにしながら、あたらしい人財育成拠点としての学校を設立しようということで合意した。
 「ところで、先生、3時からの最高裁は勝訴しますか?」と尋ねたら「ほぼ勝てる」と答えられたのだが、見事に敗訴となってしまい、その後「残念でしたね」とねぎらうと「日本の国際化はこれで数十年遅れてしまう」と嘆いておられた。
 そしてその年の2005年の12月に56歳で逝去されたが、長女と長男は弁護士として父の遺志を継いでいる。

2011年6月13日月曜日

「統一」論議

 写真の討論会が名古屋であり、参加した。
 主催団体の「三千里鉄道」というNPO法人の理事長が学園の副理事長もされており、討論会終了後は「古希のお祝いと出版記念」も開催された。
 3時間にも及ぶ討論会では「朝鮮半島の統一と平和」がテーマであるが、10数年前までは韓国の独裁政治とアメリカが統一の阻害要因であったという主張が説得力をもっていた。
 しかしその阻害要因に変化が生じている気がしてならない。
 韓国は民主化と経済発展を成し遂げ、中国の台頭もありアジアにおけるアメリカ影響力が相対化されてきている。
 私にとって「祖国統一」とは国家とか体制を一つにするのではなく、南北民衆の自由往来が実現して、軍事的対立と衝突がなくなること、そして経済交流が活発化することである。
 そうすると、この3つの条件を受け入れることができなかったのは過去南側であったが、現在では北側である。やはりまずは金正日体制の変化なくして「統一」は前進しないし、南側に変化させるための戦略・戦術がないことも同時にその前進を妨げている。
 南北の現政権自体が「統一」の最大阻害要因というのが私の結論となった。

2011年6月11日土曜日

墓参り

 大阪の天王寺に「統國寺」という在日コリアンたちには慣れ親しんだお寺がある。
 
 住職も在日コリアンでそこに父と義母の墓があり、偶然にも6月は二人の命日なので昨日妻と墓参りをした。
 住職は政治と社会に対しても積極的に発言・行動される方で、境内にはドイツから運び込んだ「ベルリンの壁」まで展示している。
 ところで父は52歳で亡くなった。来年自分がその歳になるせいか、ようやく「死」というものが現実味を帯びてくるようである。「借金」と「女」で家族にとっては決していい父親ではなかったが、不思議と墓の前で手を合わせると「恨み節」は出てこず、感謝の気持ちがこみ上げてくる。
 自分も家族に感謝される父親なのかと自問自答してみたが、答えはやはり「No」だという気がする。しかし「死後」にはそう思われたい。
 
  

2011年6月10日金曜日

グリーンカーテン

 昨年から義父がマンションのベランダにゴーヤを植えてくれるので、毎朝の日課で水をあげるのだが、たまたま昨日沖縄が梅雨明けしたその日に写真の花を咲かせた。
 故郷の梅雨明けを喜ぶように咲き誇るゴーヤの花と、異国の地に住みながらも故国をいつも思っている「一世」の生きざまが重なった。それは義父の姿でもあった。
  

「グリーフケア」

 「子どもを失った遺族に『節目』などない。変わらぬ喪失感を抱きしめながら、それぞれが一日一日を懸命に生きている」という朝日新聞の文章を何度も読み返した。
 付属池田小で8人の児童が刺殺されて10年となる。
 子どもを亡くした人を数名知っているだけに、上記文章は胸の中でこだまする。
 被害者の遺族が、「悲しみは人の数だけある。一つひとつの悲しみに寄り添える人間になりたい」とある大学のグリーフケア(悲嘆回復)研究所の受講生となったと記事は伝えていた。
 亡(失)くしたものがあまりにも大きすぎる被災者の「喪失感」もグリーフケアが可能なのか、私には正直わからない。
 喜怒哀楽の「喜」と「楽」は共有しやすいが、「怒」と「哀」は簡単ではない。
 「寄り添う」という遺族の言葉だけは大切にしなければと思うのみである。
 
 
 
 
 

2011年6月8日水曜日

虐待

 芥川賞作家の柳美里の500日にも及ぶNHKの記録をみた。
 自殺と家出を繰り返しながら現在は小六の男の子を持つシングルマザーであるが、自ら受けた「虐待」が子どもへと連鎖するその葛藤と苦難のドキュメンタリーである。
 幼少のころ殴られ、鼻を骨折させられた72歳になった父親との対面、「人生に悔いはないの?」と遠まわしに虐待への謝罪の言葉を期待したが、「出世できなかったことが一番の悔い」だと開き直る父に愕然とする。
 その後、父親を連れて韓国に行くのだが、そこの親戚から聞かされた父の過去、そして祖父の父や叔父に対する凄まじい虐待の事実を知ることになる。
 一方、母親からも虐待を受けていて、その母親がカウンセリングを受ける場面もあった。
 気丈夫に振舞っているが、カウンセラーの鋭い一言に言葉を失い、封印している自らの過去の記憶と体験を語ろうとするのだが、結局語らないままカウンセリングを拒否してしまう。
 たぶん父親以上の凄まじい体験をしているのであろう。
 柳美里が「完璧な母親を目指して努力していたのだが、それができなくなるとその苛立ちや悔しさが子どもへの虐待となっていった」という言葉が重い。
 「封印した記憶と体験」は人を成長させているようで、実はそうでないようだ。それを自ら解き放すことができたときに真の成長というか成熟が始まることを実感した。
 
 
 

2011年6月6日月曜日

「快楽」

 土・日と休養を取ったおかげか体がだいぶん軽くなった。たまっていた本も読むことができたのだが、更年期ということなので、工藤美代子というルポライターによる表題の本を読み終えた。
 副題が「更年期からの性を生きる」ということで、40代・50代の男女、そして夫婦のあり方が赤裸々に描かれている。この年齢は男性よりも女性の心身変化が激しく、それに対する男性側の理解と努力が足りないと老齢期の夫婦生活が無味乾燥になるようである。
 女性の場合はホルモン補充療法が効果的だということも始めて知ることができ、「へぇー、そうなんや」という事柄が多かった。
 さて、今日からまた同じようで同じでない日々が始まる。表題通り「快く楽しい」生活を心掛けたい。
 

2011年6月4日土曜日

否決と可決

 「内閣不信任案「は否決され、「君が代起立条例」は可決される。日本の政治がまともなら、反対の結果が出てしかるべきなのだが、そうはいかないところに、この国の病巣の深刻さをあらためて実感する。
 そして、今週最高裁も東京都立高の卒業式で起立を拒んだ元教員の訴訟で校長の職務命令を憲法に違反しないとの判断を示した。
 内田樹が「わが国の教育行政は、ひさしく現場の教員たちを査定し、審問し、格付けすることを通じて、『恐怖し、萎縮し、怯える』人間に作る替えることに、ほどんどそのことだけのために、努力を傾注してきた。」と指摘していたが、今回の最高裁の判断と条例はそのことに拍車をかける結果をもたらすであろう。
 私も痛いほど体験したのだが、教員の質低下は子どもたちを直撃する。。
 橋下さんには「一定のメド」ではなく直ちに退いてもらいたいのだが、リコール運動などは起こせいないだろうな。

2011年6月3日金曜日

更年期障害

 原因不明の頭痛に悩まされている。今日で4日目だが、頭の芯に鉛がどんと居座っているようである。男性にも更年期障害があると聞いていたが、このことかなと不安になってしまう。
 「苦しいときの朝鮮人参頼み」で、この間、韓国で販売されている液体のエキスを飲んでいるのだが、2,3時間は効果が効いているようだが、その後また同じ症状に戻ってしまう。
 今日から3日間は完全に夜のお付き合いはお断りして、まず「休酒」を試みてみることにした。