2011年7月29日金曜日

胎動

 南北対話に米朝と続き、そして国粋主義的な中井元拉致担当相が中国で北の朝・日国交正常化大使と非公式交渉という流れが表面化した。
 アメリカの中間選挙、韓国の大統領選挙、管首相の延命策などを考えると、やはり「北」の外交カードはポイント増に繋がるという政治判断であろう。
 北はそのあたりをしっかりと見透かしたうえで、したたかにそして緻密に戦略戦術を組み立てている。なぜか、「国益」が明確だからである。
 日本の「国益」はこうだとはっきり指し示して、外交をリードする政治家が現れない限り、日本はいつまでたっても尻馬に乗るか、「バスに乗り遅れた」状態が続く。
 そう意味で民主党最後の切り札は良くも悪くも「小沢」しかいない。「中井」という「毒」をもって日本国内の「毒」を制するという発想ははたして管首相から出たものか、そうであれば管政権の寿命は延びるだろう。
 
 

2011年7月27日水曜日

学校経営セミナー

 久々に2時間集中して勉強できた。テーマは「学校における財政健全化の方策」である。
 講師は税理士で中小企業診断士の方だが、開口一番「私は次世代に未来を伝えたいので、学校の発展に少しでも寄与したい」と単に、職業的義務感からだけでなく、自らの生きがいであると明言したことに、惚れてしまった。
 「少子化」の流れは25年後に現就学生徒数が4割減となり、どこの学校も生き残りに大変である。
 「財政状態・経営状況は『結果論』、つまり『通知表』と同じ・・・その結果には必ず原因があり、その原因とは、『日々の活動』そのもの・・・、結果をいくら共有しても、それを踏まえて『行動を改める』ことがなければ、計算書類に示される数値はいつまで経っても改善されない・・・まずは将来を計画すること。そしてその計画に基づいて行動すること。」という講師の最後の言葉がしっかり心に刻まれた。
 このセミナーがすべて無料ということが申し訳ないぐらいに、内容が充実している。
 次回は「人事制度改革とそのポイント」であるが、楽しみである。
 
 

2011年7月26日火曜日

セミナー参加

 「本国参政権」の啓発活動に奔走している韓国の教授と久々に会った。ようやく、政府側も民団側も重い腰を上げざるを得ない状況になってきているようである。
 来年の4月には国会議員選挙がそして12月には大統領選挙となり、初の投票まで1年を切った。
 これから少しは活気づくことが予想されるのだが、ハングルも読めず、韓国の政局も候補者もほとんどわかっていない多くの「在日有権者」の関心を高め、実際の行動に移すようにしていくのか課題は多いが、上記教授たちの活動には敬意を表したい。
 さて、後輩の税理士が勧めてくれた学校法人セミナーに今日から3回にわたって参加することになる。久々に「講義」を受けることになり、楽しみである。じっくり他人の話というか専門的な知識を習得することがこの数年間全くなく、行き当たりばったりで、付け刃的な雑学しか持ち合わせていない状態なので、しっかり腰を落ち着けて学習しようという気持ちになっているのだが、昨夜10時ごろに会って飲み始めた「赤坂一龍」の酒がだいぶ残っている。
 
 

2011年7月25日月曜日

来年の韓国選挙

 韓国の中央日報に下記の見出しの記事が掲載されていた。
  
 朝鮮総連5万人、韓国の選挙に北朝鮮が影響力を行使する?

一言で言って、荒唐無稽である。
 与党の支持率が下がり、大統領がレイムダック状態に陥ってることへの証左でもあり、相当来年の国会議員選挙と大統領選挙に危機感を抱いているのだろう。
 この記事通り、「在日韓国人」の海外投票率と関心が高ければいいのだが、現実はその反対である。
 せっかく勝ち取った民主主義でも、その上に胡坐をかいているようではどんどん腐食していく。それは日本だけでなくどこの社会でも共通である。
 「在日社会」に民主主義を根付かせるのであれば、まず、健全な「選挙文化」をしっかり定着させる必要がある。
 私も半世紀以上生きてきて、初めて来年「投票」ができる。この喜びをしっかり伝えるためにも、賢明な選択をしなければならないと肝に銘じている。


2011年7月22日金曜日

終業式

 学校は昨日が終業式で今日から夏休みである。生徒たちもようやく「解放」される実感がわいてきたのか、浮き浮きとした表情で登校している。
 北海道に関東、韓国に帰る生徒、そしてアメリカや中国に帰省する教員などいろいろな国と地方で夏休みを過ごすことになる。
 昨夜は台風で延期となった三重に行ってきた。P店の社長で当学園に子どもを通わせているのだが、その姉が学生時代の「民族サークル仲間」で埼玉で1ヶ月、そしてピョンヤンでも1ヵ月半近く過ごした旧友でもあり、人の繋がりの不思議さを考えさせられる。
 「在日社会」の狭さが、「縁」を近づけてるのかよくわからないが、数十年生きてくると偶然のように見える出会いも結局はそこに必然性が隠されているような気がしてならない。
 若くして社長になられたが80歳で現役バリバリの父でもある「会長」との確執というか葛藤で悩んでいる。裸一貫で事業を立ち上げ、さまざまな苦難を乗り越えてきた父の存在は畏敬の対象と同時に「老害」という副産物をもたらす。
 この世代間の葛藤と軋轢を埋めるものは何なのかとふと考え込んでしまった。答えは「なし」である。あるとすれば「時間」だけかなという気がする。
 帰りの近鉄特急はガラガラであった。以心伝心か久々に会いたい後輩から電話があったが、さすがに10時30頃から鶴橋で軽く一杯とはいかず、そのまま帰路についた。
 

2011年7月21日木曜日

「諦めない精神」

 ナデシコジャパンに7名の代表を輩出している神戸のクラブチームオーナーと電話で話をした。
 興奮がすでに収まっているのか、非常に冷静な態度で今後のクラブ運営を話されていた。
 まさか、ここまでフィーバーするなど誰も予想できなかったために、「想定外」のことがいろいろおきているらしい。
 特に、選手たちの「広告価値」がどんどん上がっていて、その権利関係などの整理等もあり、多忙を極めているようだった。
 10年前にこの世界に参与して、ようやく昨年リーグ優勝を果たし、そして今回の快挙である。
 このオーナーの「諦めない精神」が選手たちにもしっかり伝わったようで、普段から接している私としても他人事ではない。
 いつか、沢選手が学校に来てくれる日も遠くないだろう。
 
 

2011年7月20日水曜日

台風のおかげ

 昨日三重に行く予定をしていたがその時点ですでに暴風雨圏内に入っていたようで、先方から連絡があり「来れても、多分大阪に帰ることはできないでしょう」と言われ延期となった。
 東北地方を避けてくれただけでも感謝である。
 予定がすっぽりあいてしまったので、久々に「反戦・反核」をライフワークにしている先輩を誘い一杯やることになった。
 先輩は5月の連休に単身車で被災地に入り、決してテレビ画面では感じられない「臭い」を知らしてくれた。そして8月には毎年「広島・長崎」に行くことにしており、その間隙を縫って「沖縄の基地」で数日過ごす。
 この民族主義者の先輩が90年代に北朝鮮が核開発を放棄する変わりに「軽水炉建設」を受け入れることを米国と合意したときにも、先頭で反対を訴えた。(それもほとんどの人が北朝鮮の対米外交を賞賛しているときにである)。大学で物理学を専攻しただけに「原子力発電」の怖さを原理的に理解されていたようである。長崎と広島には愛車の1400ccバイクで向かう、「男前」の先輩である。
 今度沖縄に連れて行ってもらうことにした。
 

2011年7月19日火曜日

先輩からの贈物

 宅急便で大きなものが送られてきた。開封すると額縁に収まった絵画であった。
 5年前から「筋萎縮症」を患い、闘病生活をしている先輩からであった。どうにかまだ動く右手だけで精緻な水彩画を数十枚以上描き続けている。妻に頼み、家族の写真を移動させて一番いい場所に掲げた。
 先日東京出張の際にお見舞いに行ったのだが、そのときにいつか贈るからと言っていた。(言葉が話せないので筆談だった)
 添えてあった手紙にはいま声が出るように筋肉のトレーニングをしているから、すこし出るようになったらカラオケに行こうと書かれていた。
  そして描かれているつつじの花言葉は「恋の喜び」である。たぶん、看病している奥さんへの気持ちを私に伝えてきたのだろう。
 この先輩もナデシコジャパンしかり、伝わってくるのは最後まであきらめない生きざまである。
 
 

2011年7月18日月曜日

眠気一蹴

 ナデシコジャパン素晴らしかった。3時から録画しておいて、朝方全くニュースを聞かないようにして見ようとしたのだが、自然と3時前に目が覚めてしまった。
 たぶんアメリカには勝てないだろうが、どこまで善戦するのかという気分で見ていたが、途中からは眠気も飛んでしまい、「ひょっとしたら」という思いが強くなってきた。
 そして、沢の同点打にPK線と続き、一気に興奮が最高潮に達した。
 沢が小学生のときには「女子」ということで、大会出場を拒否されたり、アメリカチーム在籍のときは同棲している米国人男性から「サッカーと俺のどちらを取るのか」と迫られ、前者を選んだエピソード等が思い出されて、涙腺が緩んでしまった。
 ハンディを自ら背負いながらも、それを跳ね返してきた彼女の人生への最高のご褒美が今回の世界一である。そのことが何より嬉しいし、被災者をはじめとする多くの人々を勇気付けるに違いない。
 朝遅く起きてきた長男がテレビのニュースをじいっと見ながら「沢の眉毛って墨を入れているのかな?」と聞いてきた。馬鹿なことをいうもんだなと思いながら、私もじっと彼女の目元を凝視してしまった。

 

2011年7月15日金曜日

「気骨人」

 2回にもわたって学校を放映してくれたディレクターと飲んだ。
 今は、被災地の取材で福島と大阪を毎月4往復するという生活を送っている。大学時代は山岳部でヒマラヤの7800メートルまで登っており、また就職後はドイツ支局にいながら4年近く、クウェートとイラクの取材でずっと死線をさまよってきたというツワモノであるが、その温厚で礼儀正しいたたずまいにある意味戸惑ってしまった。
 福島の放射能問題については「事実の報道」と「被災地の支援」という二律背反の状況をどう伝えるか深刻に悩んでいた。
 その場に8月の大阪でのサッカー大会に福島のサッカー少年40名を招待したクラブチームの監督もいたのだが、彼によると「被災地にスパイクやボールを送っているが、ほとんど倉庫に眠っている。放射能問題もありサッカー自体ができない状況だ。この問題は数百年単位で対処しなければならないので、この大会が続く限り毎年招待する」と熱く語っていた。
 ディレクターによると芸能人ボランティアの取材要請についても「一回ポッキリでは意味がない。継続性がなければ売名行為として結局その芸能人が指弾されることになることをはっきり伝えると、ほとんど引いてしまう」という裏話も聞いた。
 久々に気骨のあるジャーナリストと「サッカー人」に会った。

2011年7月14日木曜日

女性の強さ

 昨日は朝から来客のラッシュでさすがに、夕方にはクーラーのせいか偏頭痛が出てきた。
 来客の中では翻訳家として第1人者である韓国梨花女子大学の金順姫教授のお話が興味深かった。大阪生まれの在日2世であるが、韓国人夫との結婚を契機に、数年をアメリカ、そして今はソウルが生活の拠点となっている。
 日本人に韓国の悪口を言われると反論し、そして韓国人に日本の悪口を言われると反論しながら生きてきて、どういうわけか日本に帰ってきて、大阪弁を聞くと一番気持ちが和むとおっしゃる。後で、こっそり同行者に年齢を聞くと70歳だといわれ驚いた。
 女性の社会的進出が制約され、家庭内の抑圧がひどかった時代に、自らの信念と努力で「道」を切り開いてこられたオーラを全身に浴びたせいか、「偏頭痛」もその間は鳴りを潜めた。
 そして、明け方には女子ワールドカップで日本が快勝で決勝進出するのをみて、あらためて女性が強くなったということを実感した。というよりは、男が弱くなったというのが本質であろう。
 

2011年7月12日火曜日

「豪雨」

 韓国全土が豪雨でソウル市内の漢江も水かさも増し、川辺の公園や付帯施設も水没していた。
 昨夜のニュースではすでに16名の犠牲者が出ていると伝えていたが、ソウルから数十キロにある北朝鮮の地も当然被害が出ているだろう。
 田植えの時期が済み、ようやく芽を出したであろう稲やその他の耕作物にも相当な被害が予想される。
 どこまで「人災」でどこまでが「自然災害」がわからないぐらい荒涼とした風景が思い浮かんでしまう。
 毎年恒例のように「食料援助」を国際社会に求めているが、反応が芳しくない。韓国と日本ではコメ余りで備蓄米の倉庫維持費だけでも年間数十億円?ともいわれている。
 食糧(人道)支援が短期的には「体制維持」に利用されるかもしれないだろうが、長期的には「体制変化」に繋がるという視点をなぜ日本と韓国の政治家やマスコミはもてないのか不思議でならない。
 まだ「被災者」でもある「北の民衆」の苦痛が続く。
 
 

2011年7月11日月曜日

梅雨と登山

 八経ケ岳(1915m)という近畿最高峰に登頂した。朝5時に大阪を車で出発して、一路奈良県の天川村まで約2時間。登山口の駐車場にはすでに4台ぐらいの車が止めてあった。
 午前中の天候は快晴で登り始めて約5時間で頂上に到着。展望は素晴らしく、大峰山系の山容がすべて見渡せる。


 この時期は「大山レンゲ」の見ごろだということで、この花を目当てにくる登山客で群生地は少し「渋滞」が発生していた。


 頂上からの下山後、最高の天気に恵まれたと思ったら「ゴロゴロ」と雷の音が鳴り出し、その40分後には雷雨となった。
 梅雨明け直後の山は雷雨が発生しやすい。30代の後半、「剣岳」の頂上間近の「カニの横ばい」という難所の鎖場で凄まじい雷に見舞われた。掴むことができるのは「鎖」だけで、それを離してしまうと数百メートルの谷底までまっしぐらという標高3000メートル近くの断崖絶壁の場所だった。回りにさえぎるものがないだけに、雷の音が耳元で聞こえ、強烈な「電磁波」を全身に感じる。そのときはさすがに「死」を覚悟した。
 前後数名のパーティは下山を始めたが、どちらにせよここに雷が落ちたら結局死を免れそうもないので、単独行の私はそのまま頂上を目指した。そして、頂上で「遺書」(家族一人一人へのメッセージ)を書き残した。
 あれから10数年の歳月が流れたが、まだ生かされているということは「悪運」が尽きていないということらしい。
 ところで問題は体重がどれだけ減ったかである。
 

2011年7月9日土曜日

減量作戦

 予想通り梅雨明けが早かった。毎年7月20日から7月25日の間が相場となっていたのだが、我が家も一昨日から電力消費がアップしている。
 今年の夏はどのように節電をしていくか、真剣に考えなければならない。
 体も「節電」しなれければと思い、数週間前から努力しているつもりだが、昨日体重計に乗ると、減るどころから増えている。 さっぱり理由がわからない。
 夏場に少々太るのはいいことだと考えることにしたいのだが、10月末のフルマラソンが近付いているので、それまでに3~4キロは減らさなければ、「完走」が難しい気がする。
 仕方ないので、早速明日、先輩と大峰山系を上ることにした。歩行時間だけで8時間なので、相当きついのだが、1日で1,5kは減らせるだろう。(登山後大食いをしなければの話だが・・・)
 
 
 
 
  

2011年7月8日金曜日

「宗派」

 某団体内で新興宗教がはびこり、幹部連中の子どもたちもその信者となるという事態にまで広がりを見せた。そして、どういうわけかそれを広めたのがまた組織の女性幹部で、表面化してからはその夫は自殺をするという事件が起きた。
 思想的統制が非常に厳しい団体内での事件だけに、その衝撃がすさまじい。
 ある意味、新興宗教団体の幹部が別の新興宗教を広めようとした「宗派」活動である。
 「信者」自身が自ら信じてきたことの虚構性と欺瞞性に気付きながらも、自らをだましだまし布教活動を続けてきたことが、今回の事件の背景にあるような気がしてならない。
 信念なり生きざまをみずから否定したりすることはなかなかできないものであるが、どこかでその間違いや問題点を正そうとバランスを取ろうとするときには、よりインパクトのある「思想」や「宗教」にかぶれやすいようである。
 そう意味ではその某団体には、まだ良心をもった健全な信者が残っているということになる。
 まずは「教祖様」を変えるところから団体の存続を図ってほしい。
 
 
 

2011年7月7日木曜日

あえて管がんばれ。

 簡単に辞職した最近の自民党の総理大臣たち、四面楚歌でも首相の座から降りない管総理、どちらもマスコミは批判しているが、最近の「管バッシング」にはどす黒いものを感じる。
 「原発」から「脱原発」へと日本のエネルギー政策を根本的に転換させようとする首相に財界、官僚(経産省)、自民党、民主党の一部が猛反撃を開始しているのが事の本質であろう。
 昨日の九州電力による「やらせメール」をみても、日本国内を覆っている「原発利権」の根深さを感じぜるを得ない。
 結果的にはそこにメスを入れようとしているのが、孫正義である。アメリカをバックに日本の閉鎖的な市場に風穴を開けた彼が、今度は韓国と中国をも味方に引き付けて、「国策」の根幹に触れるところまで踏み込もうとしている。
 命を取られる覚悟ができているのかもしれない。先日の李明博大統領との会見もそのセーフティネットの一環だろう。 
 すでに昔からこの国土にはびこっている「政・財・官癒着構造」という「放射能汚染」をすこしでも除去できるのであれば管首相には粘ってほしい。最近そのような覚悟を彼の表情から読み取ることができ、「薬害エイズ」時代の姿をすこし彷彿させる。

2011年7月6日水曜日

聞き役

 国内最大手の生命保険の解約をしにいった。淀屋橋の本社は立派なビルでさすが国内最大手の保険会社だけのことはある。
 手続き終了後に今日の接客についてのアンケート用紙を渡されたので、、「目の前で記入させられたら、『よくない』に○印は書き込めないでしょう」と言ったら、「その通りです。社内でも議論されているんですけど・・・」との弁解。「風通しの悪い会社みたいですね」と嫌味を言ったら苦笑いをするだけでアンケート用紙をあくまでももらうつもりである。仕方なしにすべて「よい」に○をつけて手渡したが、正直気持ちがすっきりしなかった。
 その後エコマンションのオーナーで建築家の先輩と久々にお会いして、屋上にある40畳ぐらいの芝生で軽く飲み、その後場所を移して、11時過ぎまで約6時間近く話をした。
 3級障害者で韓国での差別体験、そして日本への留学、そして事業立ち上げのかたわら次世代育成の社会活動という波乱万丈の人生を熱く語っておられた。
 興味深かったのは震災当日の日は東京でセミナーを受けていたのだが、地震の揺れを感じた瞬間に参加者全員を非常階段から全員屋外に誘導し、その後すぐにコンビニに駆け込み、手袋と懐中電灯そして2,3日の食糧を買い込んだらしい。
 このあたりのサバイバル感覚はやはり韓国での軍隊経験が生きているのだろう。
 約6時間ほとんど聞き役だったが、閉店間際に「今日何か用事あって来たのよね?」とこちらの要件に気づいてくれた。
 
 

2011年7月5日火曜日

被災地のサッカー少年

 昨夜長男が韓国から戻り、久々に「離散家族」状態が解消した。
 この間中3が釜山への修学旅行、中1がソウルでの研修があり、学校全体も閑散としていたがようやく活気を取り戻すことになる。
 日曜日には待ち構えていたように友人から早速電話があった。
 毎年夏に開催している小学生サッカー大会に被災地から70名の少年たちを招待するために走り回っているので、「手助けしろ」ということである。
 昨年はボランティァで3日間猛暑の中、給水係と雑用で活躍したのが評価されたのか今年も駆り出されそうである。
 約2000名の韓国・日本・在日の少年たちが一堂に会する大会を13年近く手弁当で続けている。
 被災地になかなか行けないもどかしさを被災地のサッカー少年たちをお世話することで少しでも解消できればと思い、当日のボランティアはもちろん、寄付(広告)やマスコミの事前宣伝まで担うことにした。
 その知人のブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/fc_vejitto/51897949.htmlがあるので、一度ご笑読を。

2011年7月3日日曜日

帰日

 昨夜日本に戻ってきた。ロスの気候に比べると大阪はミストサウナのようである。少し時差ぼけはあるが、25年間の罪滅ぼしはおつりが出るほどだったと自負している。
 20年ぶりの気の乗らない米国であったが、やはり日本にいると感じることのできない多くの刺激をもらった。
 普段何気なく使っている「多文化共生」や「貧富の差」、そして「差別と人権」と「祖国と居住国」などアメリカ(ロスアンゼルス)社会の中に身をおくことによって多角的な視野を与えられたようだ。
 とくに、これからは「越境」する人々がますます増えていくことによって、「国家と民族」が相対化され、当該政権の政策によっては間違いなく社会の活性化に繋がることを確信した。
 それは自らの家族も同様で、子どもたちは5~10年後、日本だけでなくアジアや欧米に生活と活動の拠点を求めていくだろう。そのときは何が「家族」を結びつけるのだろうかなとふと思った。
 そして、そのアジアの一員である日本は「再生(活性)」するのだろうか?今日、久々に6日分の新聞を読んだ限り、どうしても悲観的にならざるを得なかった。
 

2011年7月1日金曜日

コリアタウン

 コリアタウンのホテルに移動してからは、ほとんど英語は必要なくなった。
 ホテルの玄関に入った瞬間、全員が異口同音に「ここは鶴橋の匂いがするな」と言わせるぐらいに、ニンニクとごま油の懐かしい香りがロビーに充満していた。

 前述した在米歴30年の義兄の友人が、「20年前のロス暴動以降、在米コリアン社会側も黒人・ヒスパニックへの偏見と差別をなくし、コリアタウンの多文化共生に努力している」と話されていたが、韓国人経営のホテルや食堂にはヒスパニックの人たちを多く見かけたので、積極的に雇用をはかっているとの印象を受けた。(意地悪い見方をすれば、韓国人よりも低賃金で雇用できるということになるのだが…、それでも半歩前進であろう)
 ただし、給仕のみでオーダーの受付や、清算にはノータッチで、リカーショップのレジはプラスチックで覆われ、JRの「緑の窓口」状態だった。
 あとは、教会の多さとその大きさにも驚いた。アメリカでもっとも熱心なクリスチャンは在米コリアンと言われる所以がよくわかる。
 今日は朝から空港に向かうまで2,3時間あるのでアメリカでの最終日をじっくりコリアタウンを散策して、五感でこの街と人を観察しよう。
 
 
 
 
 

米国での初ゴルフ

 UCLAに招聘中の義兄の友人に誘われてロス市内のど真中にあるゴルフ場でプレイした。
 いわゆるアメリカンスタイルで、12時ごろいきなり行って、受付を済ましたら、レンタルのゴルフクラブを借りるだけ。後は、1~2人用の電気カートを借りるか、手動のカートを引っ張るかを決めるだけである。料金は出していないので後で確認したら、日本円で約3000円程度である。昼ごはんはレストランでテイクアウトしたサンドイッチをつまみながらの18ホールを一気にスループレーというスタイルである。
 日本のつぶれかけのゴルフ場をこのスタイルで経営したら再生できるのではないかなとふと思った。
 プレーヤーは前も後ろも韓国人で、その後は中学生か高校生らしき黒人、白人、韓国人のメンバーである。
 中・高校生らしき韓国人少年と話をしたら、「ゴルフ留学で韓国から来て、2年近くなる」と話していた。兄と母親が同行しており、父親は韓国に一人残り、せっせと働いて家族のために仕送りをしているいわゆる「キロギアッパ」である。
 さて、今日からはホテルを移動して、130万人人口を抱えるコリアタウンでの宿泊である。