2011年12月1日木曜日

閉鎖のお知らせ

今日から12月1日。ブログを続けて約1年となるが、心境の変化と諸事情により今日をもって閉めることにした。
 1年間つたない文章を読んでいただき、ありがとうございました。

2011年11月29日火曜日

36年ぶりの旧交

先週土曜日に36年ぶりの再会を果たした。高校サッカー部の当時ゴールキーパーで、コーチに辞任を求めて、受け入れられず(当然だろうが)、一緒に部を離れた。
 硬いグラウンドで全身をぶつけながら練習をしていたせいで、いつも腰を痛めていたが、37歳まで社会人リーグで現役を続けていたと言う。
 今は、地方にある服飾関連の工場長を、その前までは中国の上海で5年間単身生活を「満喫」したらしい。
 皺は増えたものの、GジャンにJパンといういでたちに、髪の毛も黒い状態で、当時とほとんど変わらないのでびっくりした。
 先方は私が全くわからないほどに変わったといっていたが、その日は約6時間、タイムスリップをさせてもらい、気持ちは完全に高校生だった。
 当時のイレブンたちを集めて、ボールを蹴りながら、同窓会をしたい。
 最近、高校時代の友人からの誘いが多い。50代になると大学や中学より不思議と高校時代が懐かしくなるものらしい。

2011年11月28日月曜日

惨敗

この二人の当選で大阪の未来はどうなるのかというより、圧倒的支持を与えた大阪府民・市民に絶望に近い気持ちをもってしまう。
「大阪都構想」よりも日常的な弱者・敗者斬り捨て政策がハイスピードで徹底的に推し進められることになるだろう。
橋下の真横でうっとりした表情で彼をうっとり見つめている女性は多分妻なのだろうが、非常に印象的だった。
あの恍惚の表情が大阪の未来を明るくすることにはならない。
この絶望感を希望に繋げていくにはどうすればいいのか、まったくわからない。

2011年11月25日金曜日

「ピンポン悲恋」

世界卓球大会で南北の男子ペアーが複式で優勝した。くじ引きによる偶然の結果で、そうなったらしいのだが、それでも嬉しい限りである。
 ちょうど20年前の1991年に千葉の幕張で世界卓球選手権が開催された。
 初の南北統一チームによる出場で、女子が競合中国を破り見事団体優勝したのだが、舞台裏ではさまざまなエピソードがあった。
 今は時効だからいえる話だが、当時取材メンバーであった私の後輩と当時韓国ナンバーワンの女子選手が恋に落ちた。
 約1月にわたる取材を通じて、お互いが強く惹かれたようである。
 彼女が日本で生活するか、後輩が韓国に行くかなどの問題やそれ以外の政治的背景があり、結局その選手は卓球界から身を引き、そして尼寺に数年引きこもり、「悲恋」に終わってしまった。
 これ以上詳しい話はできないが、それ以外にも「南北カップル」が誕生していて、「統一」するその日までと、その後10数年も「未婚」を通したカップルもいたらしい。
 私の後輩は結局、職を辞して他の女性と結婚した。
 このような「分断の悲劇」に終止符を打ちたい。

2011年11月24日木曜日

出張疲れ

先週土曜日から昨日まで関東一円を回っていた。さすがに、疲れがどっと出て昨日の昼からは体も心もまったく動こうとしない。
それでも今回はいいことがあった。
「藤原新也書行展」に行けたことである。アポイントの合間に1時間だけ時間をとれたので会場に飛び込んだ。

震災直後から現地に入り、放射能のへの警笛を鳴らし続けてきた彼の「書行」には言霊というのがぎっしり詰まっていた。
二日酔いの体と心が一瞬でしゃっきとした。是非、大阪でも開催して欲しい。
その後の寄付交渉2件も一発回答を頂いて、久々に気分が高揚した4泊5日間の出張であった。

2011年11月18日金曜日

「ノーブレス・オブリージュ」

「地位が高いものの義務」と言う意味で、最近よく耳にする。今日の朝刊に韓国で大統領候補として急浮上・人気急上昇しているソウル大の教授が約121億円を貧困家庭の子どもたちにと寄付をするとの記事が掲載されていた。
 パチンコマルハンの会長も個人資産を全額約1000億円らしいが寄付するという報道もあり、何か「寄付文化」が少しずつ浸透しているのかなという気がする。
 今回の大震災が日本国内だけでなく、個々人の生き方や価値観に決定的な影響を与えているのかなとつい深読みしてしまう。
 税制面でも今まで認められなかったNPO法人や学校法人(各種学校)への寄付も限定的だが始めて寄付金が税控除となった。
 個人の意識と社会制度の二つが相互作用すれば、これは文化となる。
 長期的にはわが学園にとっても朗報であるが、早くそのおこぼれにありつきたい。

2011年11月17日木曜日

「清き一票」

今回の大阪府知事・市長選ほど選挙権のないことを悔やむ。自分たちが住む地域であり、また愛着がある地方都市の未来を決する重要局面に指をくわえて、ただ評論しかできない状況に苛立ちを感じてしまう。
やはり、この気持ちは法律や人権という大上段の議論以前の、自然な感情のような気がしてきた。
故金敬得弁護士が国政選挙は韓国で、地方選挙は日本でという主張をされていたが、前者は実現したが、後者はまったくメドが立っていない。
福岡高裁が永住外国人の生活保護を権利として初めて認めたが、ほっとした。最近では珍しくまともな判決が下された。永住外国人の地方参政権も約20年前に最高裁で「違憲ではない」という判断が出されているのだが、立法はまったく動きを見せていない。
民衆党政権で実現しないのであれば、公明党、共産党、社民党が政権を握るまで待つしかないのかなと思うと、多分生きている間に日本の地で「清き一票」は無理だなと絶望してしまう。

2011年11月16日水曜日

アウェー

「2軍」編成だが、試合内容は完敗に近い。
 抑制の効いたアナウンサーと観客席に陣取った「北の民衆」の表情をとらえていたカメラアングルがよかった。
 鄭大世が前半で交替させられたが、これも「アウェーの洗礼」なのかなとふと思ってしまった。
   そして、もしあの場で李忠成が同点か逆転ゴールを入れていたら、周辺の反応はどうなるのだろうかななどいろいろ考えさせてくれた。

2011年11月15日火曜日

「我慢」

8月末には高校無償化の適用結果がでると文科省からいわれていたのだが、まだでない。
今日は担当者4名が直接「現地調査」を名目に来校する。
朝鮮学校との関連でずれ込んでいるのだろうが、こちらもガマンの限界に来ている。
「無償化」をうたって生徒募集をすることができれば、家計の負担を減らすことができ、非常に大きな影響を与えるのだが、それがまだできない。
たとえば、600万円以下の所得世帯で大阪府内から通う生徒は年間58万円まで授業料が無償となる。文科省が最大24万円を助成して、残りの34万円を大阪府が負担してくれる。
学校にも経済格差による様々な問題が生じており、奨学金や「足長おじさん」的な対応ではとっても追いつかない。
どうにか11月末までには結論を出してほしい。

2011年11月14日月曜日

衣替え

昨日は半日かけて、衣替えをした。そして、靴も冬期用に入れ替えた。これで、気分はすっかり冬なのだが、気候は22度でまだ初秋の状態である。
半年間の苦労を労るように、服はすべてきれいにたたみ、そして靴は一足ずつ磨きをかける。
めったに家のことはしないというか、できないだけにこれだけはすべて自分の手で行うのが年中行事みたいなものである。
妻も触発されたようで一気に「断捨離」スイッチが入り、大型ゴミ袋を6枚使い切っていた。
夕方からは堺のトレーニングセンターに長男のサッカー試合を久々に見に行った。
朝から晩まで妻と時間を共にしたのは年に数回ぐらいしかないだろう。
やはり、今後数十年のことを考えると、1日のマックスは半日程度が精神衛生上お互いにとっていいのかも知れない。

2011年11月11日金曜日

去勢

先日、鶴橋の駅前で日の丸を掲げながらマイクでがなり立てている連中がいた。「在日特権を許さない会」らしきメンバーのようである。
ばからしくて、その声にはまったく耳を傾けることはしなかったが、長引く不況による経済格差や震災・放射能等による閉塞状況などで直撃されている底辺層の不満・不安が背景にあるのだろう。
それをより社会構造的には底辺層にある民族的マイノリティに意図的にぶつけているようである。
日本だけの特殊な現象ではなくて、ドイツやフランスでも同様なことが起きているが、日本と決定的に違うのはカウンター勢力が必ず声と体で強力に「反撃」している。
日本は「反撃」が弱すぎるのである。
昨日から大阪府知事・市長選が本格的にスタートした。
私は「橋下」個人は大嫌いだが、某保守系の2大週刊誌が「同和・ヤクザ」の出自を前面に出して、彼に対するネガティブキャンペーンを繰り広げていることは許されることでない。
同様にそれに対する「反撃・反論」も弱すぎる気がしてならない。
「右」も「左」もなんか去勢されていているようで、その隙間を上記の「在特会」の輩が跋扈しているのかも知れない。

2011年11月8日火曜日

文化祭

 先週土曜日は文化祭が開催された。天気は曇りから雨となったが、気温が下がらなかっただけでも幸いである。今年の「テーマ」は希望である。


やはり、震災・台風と天災をきっかけにして、日々の生活と価値観を考え直そうということで、生徒たちがこのテーマにしたようである。
定期的に被災地で瓦礫撤去などのボランティア活動を続けている関学の学生達が最新の現地状況を報告してくれた。生徒たちの関心は放射能の人体への影響やタイの洪水など多岐にわたり、ピンポイントの支援活動を続けている大学生達にとっては難しい質問となったが、誠実に受け答えをしてくれた。
最後は生徒たちによる演劇やバンド演奏、民族舞踊等があり、昨年よりはレベルアップしていたが、2時間30分は長すぎた。

2011年11月7日月曜日

初完走

 昨日、第15回大阪淀川市民マラソンに参加した。守口の淀川河川敷公園をスタートして、枚方近辺で折り返し、毛馬の閘門から十三大橋を超えてまた折り返し、スタート地点に戻るというコース設定である。
 タイムは5時間48分で、初完走でものすごく嬉しいが、正直マラソンはこれを最後にしたい。
 ゼッケンには「ペゴリ」と記載されており、数少ない沿道の応援から2回だけ「ペゴリがんばれ!」 と言われたときとゲストの高橋尚子と中間点でハイタッチしたときは全身からアドレナリンが噴出した。(若い女性が意味も知らず「ペゴリ」と叫ぶ姿にはにんまりした)
 
 それでも、25キロ地点からははやりペースダウンとなり、30キロ地点からは太ももの筋肉がパンパンとなり走れないので、早歩きに切り替える。目標時間を6時間以内に設定して、歩いては走ったりの連続で、どうにかゴールインした。
 地下鉄での帰り、手すりがないと階段を降りられず、老人の気持ちがすごくわかった。
 マラソンは本人にも周りの人にも感動を与える素晴らしいスポーツだが、やはり私には登山のほうか向いているようである。
 
 

2011年11月4日金曜日

「本番」3日前

 日曜日の天候は雨模様である。この期に及んで一喜一憂していても仕方ない。
尿酸値も5.7ということで、痛風の症状でないといわれ、これでホルモン類が食べられると、安心したものの、別の原因がなんなのかと考えると不安になり、本番であのしびれと痛みが出てしまうとどうなるのかなと思ったりしてしまう。
そのようなこともあり、昨日からはトレーニングと肝臓は休み、筋肉疲労を緩和することにした。
ハウツウ本には、3日前からはできるだけ炭水化物を多くとるようにといっているが、私の場合はとりすぎてせっかく落とした体重が増えるかもしれない危険性があるので、「額面」通り実践しないことにした。

さて、明日は学校の文化祭で、夜は寄宿舎で宿直ということもあり、アルコールを抜いて熟睡できればどうにか完走できるだろう。

2011年11月2日水曜日

「8年ぶりのパス」

 昨夜、近くの公園で軽く走りこんでいたら、自転車に乗った長男にばったり出くわした。
 制服のままで自転車の籠にはサッカーボールがあった。
 クラブチームの練習と試合がない火・木はいつもここで練習着に着替えて自主練をしているらしい。
 目標の5kを走った後で、足元のボールぐらいしか見えない暗さのグラウンドでもくもくとボールを蹴ったり、リフティングをしている姿を遠巻きで見ていたが、こちらに気がついたようでボールをパスしてきた。
 二人きりでボールを蹴りあうのは多分幼稚園のとき以来なので、8年ぶりであろう。
 最後はフリーキックのゲームをして、私が勝ってしまった。父親の威厳がすこし保たれた。
 先に帰宅したが、その後も練習を続けている彼の努力がしっかりと根付いてほしい。
 

2011年11月1日火曜日

ハロウィン

 昨夜の会食後、久々に自宅近くのイングリッシュパブに行ったら、ハロウィンということで変装した客がいた。マスコットドッグの「ヘンリー」まで着飾っていて緊張していた気持ちが一気に溶解した。
 
 この店のカウンターで常時放映しているヨーロッパのサッカー試合を見ながら、ビールを立ち飲みする時が、「脳死」状態で心地よい。
 今日から11月である。ブログをはじめたのが昨年の11月なので、よくも1年続けた。
 そして今年も残り2ヶ月ということで、一気に忘年会モードに突入となるのだろう。
 今は、今週日曜日までに体重を3kどう落とすかで頭がいっぱいである。

2011年10月31日月曜日

大阪マラソン2

 朝7時頃に先輩のホテルに行き、会場の大阪城公園まで向かったがすでに、ごった返しており、トイレの前は長蛇の列ができていた。スタート地点では橋下大阪府知事と平松大阪市長が壇上から応援をしているが、二人には会話が全くなく視線も合わせない。

 
 

 先輩のスタート順がアルファベットの「O」なので、スタート地点で待ち構えてシャッターチャンスを狙っていたが、怒濤のように押し寄せる人並みに圧倒されてまったく探すことができない。

 

 先輩の目標タイムが6時間だというので、いった自宅に戻り、待機してから3時過ぎにゴール地点の咲州に向かうが、まったく姿が見えない。

 どうしたのかなと不安に思っていたら、携帯電話が鳴り「いま着替えて待ち合わせスペースに向かっている」というので、あまりにも早すぎるので一瞬「棄権でもしたのかな」と危惧したが、「エッ、タイムはどうだったんですか?」と聞いたら「5時間10分ぐらいだった」と返答があった。
 全身に鳥肌がたった。4月に腸の手術、6月にアキレス腱の炎症、8月に父親の逝去、10月に練習中のけがで目の上を数針縫うなどの逆境を乗り越えて、みごと来年還暦を迎える人の初マラソン挑戦である。
 「完走祝い」での表情が本当に美しかった。
 来週の「本番」に向けて、すごいパワーと勇気をもらった。
 

 

2011年10月28日金曜日

大阪マラソン

 明後日の大阪マラソンは雨模様だ。
 一緒に応募した、東京の先輩は「当選」して、私は見事落選したのだが、応援には行かなければならないので、スタートとゴール地点に駆けつけることにした。
 先輩は初マラソンで6時間での完走を目指しており、先を越されるてしまうのかなという不安と、達成してほしいという期待感がない交ぜになっている。
 その1週間後に私の本番があるのだが、目標としていた3k減量どころか、逆に増えており、トレーニングメニューも消化しきれていない。
 周囲に「完走」を大言壮語してきただけに、禁煙と同じで黙っていて「完走」したときだけ、堂々と自慢するべきだったのかなと気持ちが後ろ向きになっている。
 この数日中にとにかくハーフマラソン程度の距離を走ろうではなくて、走らなければならないという強迫観念に押しつぶされそうである。

2011年10月27日木曜日

新ソウル市長朴元淳弁護士

予想通りの勝利となった。人権派弁護士で苦労人である。学園設立当時のパンフレットにメッセージを送っていただいた。
朴独裁政権時代に投獄され、ソウル大学を除名されており、他の大学に再入学して司法試験に合格された。はじめは検察官からスタートしたが「人を逮捕・起訴する」仕事に半年で嫌気がさして、「人を生かす」側の弁護士に転職した。その後は、国家権力による人権侵害事件の先頭にいつも立たれていた。
このような人が、無所属で立候補して与党側の「肝煎り候補」をみごと打ち破るところに、韓国民主主義の健全さを感じる。
ひるがえって、大阪も府知事選と市長選がスタートするが、大阪府民と市民にも「ハシズム」を否定して「民主主義」の健全さを証明して欲しいと切に思う。

2011年10月26日水曜日

組暴(조폭)

 昨日韓国からもどったが、一番の話題はソウル市長選で今日が投票日である。多分、野党系の候補者が勝ちそうな勢いである。この約4年間の李明博政権の最終評価が今日の結果にも表れるであろう。
その次の話題が「組織暴力団(組暴)」による乱闘劇を警察が怖れて取り締まれず、上部に過少報告をしていたことである。
その映像を見たが、日本の暴力団のイメージとは違って「愚連隊」といった方がふさわしい。
みかじめ料を出さない飲食店になだれ込んで、こん棒で店内をぐちゃぐちゃにするとか、刺青を見せて露骨に脅すとか、手口がある意味単純明快である。
多分、韓国の場合は日本と違って直接暴力団を取り締まる法律が存在しないのかもしれない。
大学の4年生の時に、鶴橋で当時山口組№2の某組の戦闘服を着た下っ端とやりあった時代が懐かしい(もちろん、最後はダッシュで逃げ切った)。今は素人には逆に怖くて手を出せいないだろう。
しかし、私の横で下っ端を投げ飛ばしていた同級生は「素人」ではなかったが・・・。

2011年10月25日火曜日

痛風?

 九州出張の時にその痛みが出た。右足の中指と薬指がしびれたような痛みで歩くのがつらくなった。
それから1週間おきに同じところに同じ症状が出るので、痛風だと思われるが、まだ病院には行っていない。
毎回の検査では尿酸値が高かったので、ひょっとしたらと思っていたのだが、妻には「外食ばっかりの生活だから当然の報い」と冷たくあしらわれた。
同じ病気の「先輩」方に確認すると「最初は親指から痛み出す」とのことだが、さて明日にでも病院に行って、診断を受けることにする。11月6日(日)に「マラソン完走」を目指しているだけに、不安でならない。

2011年10月24日月曜日

人事の季節

  昨日から韓国に来ている。トイレに入ったり、電車にのったりすると、公衆道徳を訴えるポスターなどの表現が明確に「やめなさい」「しなさい」というようにストレートであることに気がついた。
日本だと「ひかえてください」「遠慮してください」などの遠回しの表現が多いように見受けられる。
明確に「車内での痴漢行為は犯罪となります」ではなくて「痴漢行為は人間とて恥ずかしいことなのでやめなさい、見つけたらただでは置きません。」とかいうように命令口調の表現に切り替えたら、すこしは加害者の心理と行動にプレッシャーを与えるのではないのかなとふと感じてしまった。
さて、人事の季節に突入である。何度も嘆いているが、教員の評価は数字で判断できないので本当に難しい。上には反抗的で批判的であっても生徒には素晴らしい対応をする人もいれば、その逆もまたある。そのようなでこぼこ状態の方が子どもにとっては息苦しくないだろう。
橋下が「教育基本条例」(?)を成立させようとしているようだが、彼のエリート的な独善性がよく現れている。上にとって都合のいい教師だけで学校現場を固めてしまえば、子どもたちは完全に酸欠状態になることは素人の私でも理解できる。
そして清志郎の「僕の好きな先生」のような名曲も生まれてこない。

2011年10月22日土曜日

グリーカーテン

約半年、ゴーヤにはお世話になった。毎朝、水をやりながら葉っぱの一つ一つを見ていると不思議とその生命力の強さがじんわり自分にも伝わってくるようで、植物のすばらしさを感じさせてくれた。
当初は妻に頼まれて仕方なくしていたのだが、そうするとその気持ちがゴーヤにも伝わるようで、実のできが悪かった。途中から愛情をもって、葉っぱをながめたり、ミツバチが密を吸いに来るのをじっと見ていると、実のできがよくなったような気がしてならない。
晩秋となりその役割もそろそろ終わりを告げようとしているようで、葉が黄色くなってきた。

自分の人生もある意味で晩秋なのかなという気がした。若葉のみずみずしさはとっくに消え去っているが、紅葉の美しさだけでも保ちたいなと思う。あるいは季節外れの「狂い咲き」もあるのかなと、ふと期待してしまった。
 自宅と私の心のグリーカーテンとなったゴーヤに心から感謝。

2011年10月21日金曜日

「現役」歌手

  昨夜は校長と「支援者候補」とお会いして、楽しいひとときを過ごした。超繁盛店の「焼き肉屋」を切り盛りしながら、ソプラノ歌手としてソロリサイタルも開催し、社会貢献にも積極的にかかわるという60歳前後?の女性である。
そのような彼女に注目して、ラジオでドキュメンタリーを制作した人が、「チチンプィプィ」に学校のことを2回も放映してくれたディレクターであったことが判明して驚いた。
彼女は2年前に大病を患って生死を彷徨ったのだが、今は「生かされている」と実感しながら、むしろ病後の方がパワーアップして、ソプラノの声もすごく丸みを帯びてきているのだから不思議でならない。
「在日2世」としての使命感が日々強くなっているといいながら、次世代に「在日1世」の魂を伝えたいと抱負を語っていた。
来年は帝国ホテルで歌うらしいので、是非駆けつけてみようと思う。

2011年10月20日木曜日

「死ぬのを待っている」

 「慰安婦」問題を結局、李明博大統領は首脳会談で言及しなかった。「経済重視」というが、韓国の日本大使館前では毎週水曜日に元「慰安婦」達と支援者が集会を行っている。
今年12月にはその集会が1000回を迎えるのだが、どんどん被害者達は高齢でこの世を去っている。
90年代の初め、南北朝鮮とフィリピン、オランダの被害女性を日本に招待した「国際法廷」とシンポジュウムがあり、かかわったことがある。被害女性達は異口同音に「日本政府は私たちが死ぬのを待っているのか」という悲痛な叫びをあげていた。
北朝鮮から来られた被害女性をホテルまで連れて行き、部屋にご案内して使用方法などを説明をしようとしたのだが、ベッドの上に置かれていた和風の寝間着を見た瞬間、凍り付いていた。
半世紀前の記憶が蘇ったのか、数分立ち止まっていた。
翌日の朝食に出された牛乳にも決して口をつけなかった。不思議に思っていたら私ではなくてもう一人の付添の女性に「精液を思い出す」と漏らしていたようだ。
半世紀経っても決して癒えることのない心の傷に南北も日本もしっかりと向き合おうとせず、政治・外交カードとしてそのタイミングと効率性をうかがっている。

2011年10月18日火曜日

投身

 日曜日の夕方に自宅マンションで投身自殺があった。50代の女性だったらしい。サッカー帰りの長男が担架に乗せられているところを見たらしいのだが、私は寄宿舎での宿直があり全く知らなかった。
 新聞に報道されているのかなと思ったら全くでていない。年間3万人以上が自殺し、自殺未遂まで含めると毎日100人以上ということでは「事件」にはならないのだろう。
 しかし、住人としては一人の「死」を重く受け止めたいので、女性が投身した場所を上から眺めながら、その瞬間の女性の気持ちに思いを馳せてみた。
 高いところから身を投げる人は、あらゆる束縛と拘束から解き放たれる一瞬の快楽を求めたのかなとふと感じた。
 出張先で立ち寄った大分県のコスモス園の花を女性に捧げたい。(合掌)

 

2011年10月17日月曜日

九州出張

 土曜日の夜に九州から戻ったが、四泊五日の出張はやはり疲れる。山口から小倉、博多から大分へといろんな人と出会った。民団系の人から元総連という人(さすがに現役はいなかった)、そして全くの未組織という人まで。
その共通点は①ルーツ、②地域、③次世代を大切にしていこうとする熱い気持ちである。
この3点で集っているメンバーが「サンキュークラブ」という団体であるが、山口の「山(さん)」と九州の「九(きゅう)」を掛けあわせた名称である。
この団体が10周年を迎えたことと、現会長が旧知ということもあり、参加した。
 女優の黒田福美さんの講演もあり、またシンガーソングライターの新井英一のライブもありと盛りだくさんだった。とくに、新井さんの「リムジン河」と「清河への道」には全身がしびれた
 

 さて、どうにか第2号棟寄宿舎の建設も確定しそうですこしだけ一息つけそうだ。
 

2011年10月13日木曜日

歴史捏造

 中国内にある高句麗の遺跡が捏造され、その歴史がどんどん消されている。
知人が憤慨していたので、わたしもその歴史ドキュメンタリーを借りて見たのだが、その「手口」があまりにも乱暴でひどすぎる。
高句麗時代の城壁の上にコンクリートで固めた中国形式のお寺を建立するだけでなく、その名称まで変更するので、地域の住民達も困惑している姿も生々しく映し出されていた。
韓国側の取材が学説と史実に依拠して、非常に冷静であったのが印象的であった。
いわゆる中国政府は「東北工程」という歴史観を打ち出し、「高句麗は中国の一地方政権だった」という考えを行動に移しているのだろうが、歴史の捏造は必ずその「審判」を受けることになる。
日本も北朝鮮も同じである。

2011年10月11日火曜日

いつもの定番コース

 土曜日に理事会が無事終了して、日曜日はアメリカ人の英語先生カップルと生駒に登った。
 この先生とは先々週、高2のクラス旅行で一緒に四国を回ったのだが、アウトドア派で誘うとすぐに応じてきた。
 枚岡神社~「僕らの広場」~「鳴川峠」~「千光寺」~「音花温泉」~「京愛館(カムジャタン)」という定番のコースである。
 妻も天気(機嫌)がいいのか仕事をキャンセルしてまで、合流してきた。
 
 このコースは3時間30から4時間程度で変化のある景色を満喫できるのが最大の魅力である。アメリカ人の英語先生はいつも六甲山に登っているのだが、今回のコースをすごく気に入ってくれた。
 最後の温泉も露天風呂がすごく大きくて、泉質もすべすべしているので女性たちにはとりわけ好評である。
 最後は来年3月にハワイで式を挙げる二人をお祝いして「京愛館」でカムジャタンを堪能した。
 これには、釜山にはまってすでに8回も行ってきたという日本人フィアンセも感動していた。
 豚足の辛炒めに、チェプチェ、海鮮チジミ、生ビールに、マッコルリまでいただいて、4人で1万円ちょっとである。
 さて、今日から土曜日まで九州出張である。「あたって砕けろ」という気持ちで、山口、福岡、佐賀、大分を時間短縮のためレンタカーで回ることになった。
  
 
 
 
 

2011年10月7日金曜日

ジョブズ去る

 死を覚悟したり、その到来を確信した時に他者に何を告げるのか、その最高のメッセージを昨夜故人となったジョブズから頂いた。
 スタンフォード大学の卒業式でのスピーチは素晴らしかった。聞いた瞬間にじわっと電気が走るのを感じた。
 「ハングリーであれ、愚直であれ」というシンプルな言葉に、エキスが凝縮していて、それにお湯をかけたら無限大に広がっていくようである。
 56歳の人生だったが、世界の人々に残りの人生を託して旅立ったのだろう。(合掌)
 

2011年10月6日木曜日

エクスタシーとアイデンティティ

 「自己に固執するアイデンティティと自己をなくすエクスタシー。これを繰り返すことで人は生きている気がします」ということを人間そっくりのロボット(アンドロイド)研究の世界的的工学者である石黒浩氏が元阪大総長との対談で述べていたのが印象的である。
 自分は何者であるか突き詰めて考えぬくアイデンティティと、自分を自分でなくすエクスタシーの相関関係をこの二人が「生きるって何やろか?」(毎日新聞社)と語っているのだが、「目から鱗」的な内容が満載である。
 日本国籍だが両親は日本と韓国、両親とも韓国だが国籍は日本、朝鮮半島とはまったく縁のない日本国籍等、生徒たちのアイデンティティを複合的にどうとらえ、そして向き合っていくのかという問題に日々ぶつかる教育現場だけに、この本は参考になった。
 この二つのキィワードを読み解いていくと結局「人間とは何やろか?」というところにたどり着く。
 簡単に言うとそのヒントらしきものが冒頭の石黒氏の表現になるのだが、ロボットを通じた人間洞察の鋭さに舌を巻いた。

  

2011年10月5日水曜日

「韃靼の馬」

 単行本として630ページ近くある歴史小説で、日経新聞に2年近く連載されていたらしい。先週ようやく完読したが、日本と朝鮮半島、そして中国大陸を舞台にした壮大なスケールでぐいぐい引きずりこんでくれた。
 江戸時代の「朝鮮通信使」は史実を丹念に描きながら、当時の朝・日の人的交流、外交的駆け引きなどの裏舞台にどのような人間模様があったのか、そして侵略によって傷ついた民心、朝鮮人が日本人となり、また日本人が朝鮮人となりながらも志をもって生きていく誇り高い人々の姿が感動的である。
 アイデンティティは自己を縛り、そしてエクスタシーは自己を開放するという鷲田元阪大総長の言葉がふと浮かび上がった。

2011年10月4日火曜日

2学期スタート

 毎朝5時頃朝刊を取りに行くのだが、ばったり学校法人セミナーの講師の先生と鉢合わせとなった。
 同じマンションに住まわれていることは聞いてはいたので、いつか遭遇するなとは思っていたが、まさか寝間着姿状態で早朝から挨拶を交わすことになるとは少々気まずかった。
 3回にわたり質の高いセミナーを無料で受講できただけでもありがたいのに、わざわざ学校まで来られ、見学をされて行かれた。
 中央官庁でのキャリァの道を投げ打って、経営コンサルの仕事を始められたと聞いているが、とくに学校に対する思いはすごく熱い方である。
 2学期が始まる初日にこのような方と朝からお会いできるとは、非常にラッキィで昨今の天気のようですがすがしい気分になった。
 生徒たちは5日間ほどの秋休みを満喫したのか、元気よく登校してきている。
 10月からは推薦入試の願書受付となり、これから生徒募集が山場を迎える。これだけは、蓋を開けるまで気が抜くことができないが、どうにか昨年度の水準を上回りたい。

2011年10月3日月曜日

高2親睦旅行

 先週金曜日から昨夜まで高2の親睦旅行に同行した。というよりは、アメリカ人の担任先生だけでは、大変だろうと思いドライバー兼雑用係でボランテイァをかってでたようなもんである。
 徳島では渦潮見学とラフティングを、香川ではうどん作りをという四国満喫の旅である。
 しかし、生徒は5名で予算は限られているので、朝晩は自炊で、2日目は担任がメキシコ近くのアリゾナ出身と言うこともあり、「タコス」などの料理を作ってくれた。
(生地もすべて手作りで、肉は豚肉)
(吉野川下流)
                     ( 金比羅から眺めた讃岐富士)
 (758段の階段を上がった金比羅)

別れ際、生徒たちが整列して1学期の感謝を述べながら、担任に寄せ書きを渡していた。
 これには思わず、いつもクールな担任もウルルときていた。こういう情景を見ると教員はいいなぁと心底思ってしまう。
 秋休みの5日間の休暇をほとんどを犠牲にして、フィアンセとのデートも後回しにした担任先生の努力が生徒たちにもしっかり伝わったようである。
 
 

2011年9月30日金曜日

「도가니」(坩堝) 続

 先日記述した韓国映画「도가니」がついに政治家を動かし、性暴行と虐待に対する法律を厳罰化することになった。
 また、当時13歳以下の被害者であった女子生徒が民事訴訟で3000万ウォンの損害賠償を勝ち取ったとのニュースが大きく報じられていた。
 一つの小説と映画がきっかけとなってこのようにハイスピードで政治と法律を変化させるところが韓国らしい。
 そしてこの小説の作者が私の最も好きな孔枝泳であることも嬉しい。
 映画を観終わった直後の鬱積した気分が少しは軽くなった。
 
 

2011年9月29日木曜日

六本木での対話

 支援者に連れて行ってもらった某クラブで横に座った女性との対話記録。(Hは私、Wは女性)

 H:「はじめまして、Hと申します。}
  W:「中国か韓国の方ですか?」
 H:「祖先をたどれば両方です、中国でも発音はHで韓国でもHなので、ルーツは中国かな・・・」
  W:「それじゃ在日の3世ぐらいですか?」
 H:「その通りだけど・・・、ひょっとしたらあなたも在日?」
  W:「私は日本人ですが、実は結婚まで考えた男性が在日でした」
 H:「ということは、別れたということ?」
  W:「別れるときに『イムジンガン』という歌を歌ってくれたのですが、知っていますか?」
   ※しばし沈黙
 H:「その男、魅力的だったでしょう?」
  W:「今でも心に居座っているみたいです」
 H:「あなたは今何歳?」
  W:「28歳の博多出身で、今年4月に2年近くいたアメリカから帰ってきました」

 それ以降の会話は個人情報に抵触するので省略することにして、こういう出会いもあるもんだなと感慨深い六本木の夜だった。
 
 

「越境人」の原型

 中国朝鮮族の友人と2年ぶりにあった。慶応大学に留学して卒業後に起業して15年で携帯DVDを中心としたIT会社を経営している。
この2年間で15キロほどダイエットしたようで顔を近くに寄せてようやく彼とわかった。
日本には5万人近い「中国朝鮮族」が住んでいるといわれており、そのネットワークはどんどん拡大しているようである。
とくに、出稼ぎの単身短期滞在から家族同伴の定住型へと変化している。
中国の急速な経済発展は「朝鮮族」の生活と価値観にも多大な影響を与えていて、200万人近く住む延辺では北京、上海そして韓国へと移住して激しい人口減少を招いている。
中国国内では「少数民族」、日本には「移民」として、中国語、朝鮮語、日本語の3カ国語を駆使しながら主流社会への参入を目指すそのパワーはすさまじい。
この友人も子どもを幼稚園までは中国に送り、小学校は日本学校に、大学はアメリカという選択肢を考えている。「中・高はKISに」と投げかけたが反応はもう一つであった。
しかし支援の意志を明確にしてくれた。 彼(女)らに「越境人」の原型を見た。

2011年9月26日月曜日

「도가니」(坩堝)

  釜山の知人に勧められて表題の韓国映画を観た。入場料は10000ウォンなので、600円ぐらいで大画面のゆったりした椅子で楽しめる。
 2005年に韓国の障碍者(小・中)学校で起きた実話を映画化したのだが、ストーリーは学校と寄宿舎内で校長・事務局長・教師による暴行(レイプ)・暴力事件である。
 裁判では執行猶予となり、加害者全員が学校復帰を果たすのだが、司法内部の癒着、法律の不備、障碍者への差別、貧困問題等その社会的背景が詳細に描かれている。
 あまりにも重たい内容の直球型社会派映画で、なかなか憤りが収まらなかった。
 深呼吸を思いっきりしたくなり、帰路に韓国一の海水浴場である海雲台ビーチの横にある廣安里ビーチまで足を伸ばした。
  映画の最後に出てきた「世間(社会)を変えようとするのではなくて、世間が自分たちを変えられないようにしなければならない」とセリフが印象的であった。

2011年9月24日土曜日

怒濤の一週間

昨夜学校理事のご令嬢の結婚式がリッツカールトン大阪であった。

最近は結婚式に参加すると、一人一人の子どもたちを思い浮かべながら、長女ならどのような演
出をするのか、次女なら涙で目を腫らして化粧がぼろぼろになってしまうのではないのかなと自分の問題として想像力を膨らましてしまう。
問題は結婚の前にk彼氏ができるかどうかで、現在のところまったく音沙汰無しである。
彼氏がいてもいなくても心配してしまうのが親心なのかもしれないが、最近は「出戻り」も含めて結婚もせずずっとシングルでいることも想定内としている。
さて、今日からまた韓国出張となる。来週月曜日にもどり、火曜日からは東京、四国となり、大阪に戻れるのは来週の日曜日という怒濤の一週間の始まりである。

2011年9月22日木曜日

北アルプス走破

 結局昨日は休校となった。それにしても午前中の風雨はすさまじかった。これで一気に秋へと突入しそうである。 一昨日の夜、大学時代の先輩から呼び出され、初の北アルプス走破の話をたっぷり聞かされた。
年齢は64歳だが、その持久力は30代と言っても大げさではないだろう。
初日は上高地から北穂高までの約10時間、2日目は北穂高から奥穂高、前穂そして一気に上高地までのコースを約12時間で走破された。
もちろん、晴天を見計らって行かれたのだが、それにしてもこのコースを一泊二日で走破するのは大学の山岳部並みである。
10数年前に私が同じコースをたどったが、二泊三日であった。
今年は実現できなかったが、来年は久々に3000m級の山々をじっくりと走破したくなってしまった。
あの景色に魅了されるとやはり「麻薬常習犯」状態になる。

2011年9月21日水曜日

台風時の判断

 今朝から大阪府は暴風・大雨で学校は本来休校なのだが、後期試験中ということで11時まで自宅待機して警報が解除されれば午後から登校で試験となる。 私はいつものように車で出勤して7時過ぎには学校に着いたのだが、こういうとき教職員はどのようになるのかと思い、就業規則を確認しても該当する箇所がない。
生徒と同じ扱いなのか、交通機関が動いているのであれば通常出勤をするべきなのか悩ましい。
ネットで調べてもみたが、暴風・大雨警報で休みにする会社はほとんどない。だから遅刻した場合は賃金カットもできるような書き込みも見受けられるが、それはあまり酷いような気がする。
台風・地震の多い日本だけに、就業規則にも具体的な記述をするべきだとの思いを強くしている。
それにしてもまだ誰も来ない。午後から尼崎で面談があるのだが、変更するべきかどうか悩ましい。
この台風の中を訪ねてきたその姿勢に打たれて、寄付金額がアップするのか、非常識かつ無謀な奴だと思われて寄付を拒否されるのか昼までに判断しよう。

2011年9月20日火曜日

「天敵」

 やはり韓国焼酎にやられたようだ。昨日は頭の芯が痛くて起き上がれなかった。
冷静に考えればウィスキーもビールも飲んでいるので、根本原因はアルコールなのだが、チャンポンすると韓国焼酎が化学反応を起こし、毒素を体内にばらまいているような気がしてならない。
読書する気力もないので、DVD映画を3本見た。
一つは「プリティウーマン」、二つ目は「ブラックスワン」、3本目は「塹壕の中で(전호속에)」である。
一本目が非常に良かった。ある人につよく薦められてこともあり、見ることになったのだが、女性の自立と尊厳を小気味よく感動的に描いていた。
金曜日は7年ぶりに後輩と再会した。大阪で「韓流ビジネス」をテーマにした講演会の講師として招かれていて驚いた。この世界に飛び込んで約10年近くなるが、「だまされたものが負け」というすさまじい業界でどうにか生き残っている。
ようやく今大人気のチャン・グンソク主演の映画まで完成させ、来年からの上映にこぎつけた。久々の再会で南の街を夜中の3時まで徘徊してしまったが、「地獄の1丁目」から見事復活した彼の苦労話の刺激が強すぎたせいか、アルコールが溶解してしまったようである。
金・日の深酒と午前様で「雌鶏」が鳴かないのが、不気味で恐ろしい。

2011年9月16日金曜日

「女性たちの怒り」

 リビアのカダフィ政権崩壊のきっかけとなったドキュメンタリーを観た。2月18日の民衆蜂起に繋がる伏線には何があったのかがよくわかった。
 それは、母親たちの存在である。秘密警察などに連行され、そして殺されたり行方不明となった夫や息子たちの妻や母親たちが真相究明を求めて、息の長い抗議活動をしていたことが導火線となって「リビアに自由を、カダフィ追放」というスローガンに民衆が飛びついたのである。
 もちろん、それ以外の様々な謀略的な要素も否定できないであろうが、「女性たちの怒り」が42年間の独裁政治に致命傷を与えたことに深い感銘をおぼえた。
 「雌鶏が鳴くと家が亡びる」という女性蔑視の韓国の諺があるが、「雌鶏が鳴かないと家が亡びる」に変更するべきである。
 私の家ではいつも鳴き続けているからどうにか亡びないですんでいるのかなと思いたいのだが、できれば朝だけにしてほしい。

2011年9月15日木曜日

「死の町」

昨日から韓国からの来客があり、付き人状態である。関空近くのホテルにチェックインして、泉州の地魚が美味しい居酒屋へと案内した。特産のワタリガニ、水なすなどに舌つづみを打ちながら、話をしていると真横からもハングルが聞こえてくる。こんな場末のB級グルメ店にまで押し寄せてくるとは驚きである。ところで、話題はやはり「放射能」である。「死の町」発言等で辞任させられた大臣には同情的である。実際「死の町」になっているのに、なぜ、マスコミは過剰反応をしているのか全く理解に苦しむようである。「放射能がうつるぞ」の発言はさておき、私も彼らの認識に全く同感である。
藤原新也がウェブマガジン上に「たとえ明日世界が滅びようと、わたしは今日林檎の木を植える」というルターの言葉を引用しながら、今回の騒動の荒唐無稽さを一刀両断にばっさりと切っていた。
今は、彼の「今、前向きに生きるコツは、頭より体を優先させることだ。こんな状況で頭ばかり働かせると、悲観の悪循環に落ち込む。抱えきれない悩みのある人がお遍路で四国を旅すると、何も解決していないのに歩くうちに悩みが軽くなることがある。心の軸が頭から体に移るからだ。体は生きようとする生理を持っている。それが『林檎の木を植える』ということだ」という言葉をしっかりと刻みたい。

2011年9月14日水曜日

「脱北者」

 今月8日に北朝鮮を出発して韓国に行こうとした9名の男女と子どもが金沢港で身柄を拘束されたとのニュースが飛び込んできた。
今から17,8年ほど前になるが、冬の季節に北朝鮮漁船が敦賀港沖に漂流して現地に急遽派遣されたことがある。男性ばかり8名前後で、1ヶ月近く漂流していたようで、発見される数週間はほとんど飲まず食わずの状態で、船体の一部を剥がして暖をとっていたという。すぐに福井市内の病院に移され、治療を受け、1週間ほどで体調が回復した。
その後、話をいろいろと聞くことになったが非常に口が重い。しかたなく、一人一人を個別で聞いていると当初乗船していた人数が10数名だったということである。残りの数名はどうなったのかということだが、そこに話が至るとピタッと口を閉ざしてしまった。そこからは想像に任せるしかないのだが、無事この8名前後の船員たちは飛行機で帰国した。難破寸前の漁船は公海上で北朝鮮側に渡されて一件落着となったのだが、そのとき初めて海上保安庁の巡視船にも乗せてもらった。
拉致問題もなく、朝・日関係がまだのどかな時期の話であるが、今回はまだ食糧が残っていたと聞いてほっとした。

2011年9月13日火曜日

中秋の名月

 月明かりがきれいな夜だった。ここ数年は天気がよくなく、はっきりと名月を見ることができなかったという記憶が残っているのだが、昨夜は申し分なかった。そして一緒に食事をしたメンバーも。
 1次会は北新地の豚肉串焼きの専門店、2次会は道頓堀の赤坂一龍という「ソルロンタン専門店」である。「赤坂一龍」の店長からは「『秋夕』」の夜を一緒に酒を酌み交わしたい」と直々に電話があったので、顔を出したのであるが、韓国人の情緒からするとこんな特別な日には親しい家族や友人とひとときを過ごしたいという気持ちが切になるようである。
 この店長は元「韓国空挺部隊」出身で、超一流企業の「ポスコ」を脱サラした経歴の持ち主でもある。
 東京赤坂で50年近くの伝統を持つ「赤坂一龍」という「ソルロンタン専門店」で修業して、この店を大阪の地で2年前にオープンした。
 先日ソウルで100年の伝統を持つ「里門ソルロンタン店」にも行って見たが、本場の味よりも「赤坂一龍」のスープが濃厚で美味しいと思う。まさしく「秘伝」の味である。

2011年9月12日月曜日

秋夕

 今日は中秋の名月である。本来ならば今朝に法事(祭祀)を行うのだが、平日だと人が集まらないので、急遽日曜日の夜に変更した。
 韓国では3,4日休日となるほどの一大イベントであり、中国でも同様であるのだが、日本だけが不思議と正月も含めて陽暦を採用しており、国民的行事とならない。アジアでもっとも近代化が早かったせいなのかとふと思う。
 妻が一人で祭祀用の料理をせっせと作っているので、さすがに何もしないというわけにもいかず、上記写真の「飾りつけ」を手伝った。
 その後、各家族が全員集合して、老若男女が故人に礼をおこなったのだが、このような形式で祖先に感謝して、故人を偲ぶということは子どもたちの倫理観形成に非常に有益だとの思いを改めて強くした。
 そして、震災から半年ということもあり、犠牲者の冥福もともに祈った。
  
 

2011年9月10日土曜日

経済制裁

  朝・日女子サッカーは1対1の引き分けとなった。沢が「勝てる試合だった」とのコメントを残したが、5人の主力選手がドーピングで出場停止となった北朝鮮チーム選手の層の厚さを実感した。
 昨夜、東京からの来客があり久々にじっくり話を聞いた。先週のワールドカップ予選の朝・日戦前に北朝鮮選手たちのためにサッカーシューズを全員にプレゼントしようとしたらしい。
 ところが、それ自体が「贅沢品」ということで、経済制裁の対象となっており、手渡すことができなかったと呆れ返っていた。
 昨年の南アフリカワールドカップ大会のとき、「朝鮮の選手たちはスパイクが一足しかなかったので、雨降りの後は困った」という趣旨の鄭大世のコメントを聞いたのが、きっかけだったらしい。
 やはり、「経済制裁」は権力層でなはく、庶民の生活を直撃している。日本政府はこんな効果のない措置を撤廃して、「虎穴」に入るすべを考えるべきである。
 
 

2011年9月6日火曜日

台風

 一昨日の日曜日、まだ台風の影響が強い中、午後から思い切って生駒を登ってきた。
 土曜日夕方からのマラソン会議で溜まったストレスとプレッシャーを発散したくなってしまった。
 近鉄枚岡駅を出発したのが午後1時ごろで、最終目的地の音花温泉には5時に着いた。風雨ともに強かったが、頂上に着いた時には雨もピタッとやみ、明石海峡まで見渡すことができた。
 10回以上も行き慣れたコースではあったが、正直土砂崩れが怖かった。
 音花温泉の大きな露天風呂につかりながら、空を見上げると白い雲と黒い雲そして灰色の雲などが忙しげに西へと流れていた。その隙間から垣間見えた青空の色が神々しかった。
 風呂上りに生ビールをひっかけて、ほろ酔い気分で帰宅したときには明日への活力がみなぎっていた。 
 しかし、今回の台風による被害が100名近くになりそうである。
 那智勝浦の町長は妻と結納直前の娘を亡くしてしまった。
 犠牲者と被災者の冥福を祈りつつ、彼(女)らの分まで一生懸命生きなければと気持ちを引き締めた。(合掌)

2011年9月5日月曜日

万景峰号

 今朝の朝日新聞にこの船が中国の観光客を乗せて、金剛山観光に使用されているとの記事が出ていた。確か、この船は在日の人たちの寄付で建造された記憶がある。そして、金剛山に最初に建てられた観光ホテルもそうだった。金剛山はその後韓国の「現代財閥」がインフラ整備をしたのだが、それも「没収」されたままである。
 この船には多分10数回以上乗船し、お世話になっただけに思い出深い。
 船酔いで全く起き上がれず、船室で寝ていたら、美人乗務員から「男のくせに情けない。さっさと起きてせっかく作った食事を食べろ」と怒鳴られたことや、元山の港を離れ日本に戻るときにせつない表情で涙していた親戚の姿などが今でも鮮明である。
 そして、せっせと数十個の段ボールに生活必需品を詰め込み、頻繁に往来していた1世ハルモニ(おばあさん)達が、この船まで「制裁」対象にされて、仕方なく荷物に制限がある飛行機で子どもたちに会いに行かざるを得なくなっている。
 日本政府の「北朝鮮制裁」は結局、本国ではなくて足もとの在日朝鮮人の生活と肉親の絆を直撃している。

 

2011年9月4日日曜日

朝・日戦、韓・日戦

 連日で隣国同士のサッカー試合があった。
 一昨日は善戦で、昨夜は惜敗だった。日本の男女サッカーは過去最高のレベルを維持している。
 一昨日は数ヶ月ぶりのノンアルコール状態だったので、冷静に試合を観戦することができたが、もともと弱いと言われていたメンタル面が強くなったとの印象を受ける。
 印象深かったのは攻撃の要が二人とも「外国人」であったことだ。もちろん偶然なのだが日本人監督であったらこの采配があったのかなとふと考え込んでしまった。
 後半に足をつらした北朝鮮選手に声をかけて、マッサージをしてあげていた李忠成の姿に感動した。そして鄭大世がまた「愛国歌」に涙していた。安英学は90分フルに走りまわっていた。
 そして新しく仙台の梁ヨンギが合流して、22人中4名が「在日選手」だった。
 
 

2011年8月31日水曜日

新首相

 海江田がなるとすっかり信じ切っていたのでびっくりした。
 韓国内ではやはり「歴史認識」に問題が相当ある人物だとして、警戒する報道が多い。
 「松下政経塾」出身ということも紹介しながら、その枕詞が「極右指導者養成機関」と付け加えられていて、一瞬唸ってしまった。
 管首相にはもう少し粘ってほしかったのだが、見事に引きずり降ろされ、「小沢待望論」も当面影を潜めることになる。
 管さんは最後に「置き土産」として「朝鮮高校の無償化」の審査開始を指示したようである。
 最初からストップしたのがおかしいのであって、今更という気がしてならない。
 新首相には期待するものは何もないというか、日本の政治がまた停滞して、また首のすげ替えが繰り返されるだろう。
 韓国の知人たちからは「日本の首相は任期が1年と憲法で定められているのか」と皮肉たっぷりに酒のつまみにされてしまった。私が選んだわけでもなく、選ぶこともできないのだが、大統領選挙を直接選挙にした民主化の実績があるだけに、彼らの「国民の政治責任」という認識と自覚は日本とは比べ物にならない。

2011年8月30日火曜日

釜山・ソウル

 土曜日から釜山、そして昨日からソウルに来ている。昨年設置したKISの韓国事務所側と協議することになった。
(釜山駅から見た風景) 
(チャガルチ市場の夜)

 放射能・円高という史上最悪の状況で韓国内の日本留学斡旋業者が店じまいをはじめているという。確かに、留学センターが密集している鐘路の街を歩いてみたが、昨年より「日本留学」の看板が減り、その代わり中国とカナダが増えているようである。
 所長は悲観的だが、新しく就任した副所長はこの道数十年のベテランだけあって、冷静に事態を分析しながら打開策を練っていた。
 夜はいつものごとく、会食続きだが、過去とは違っていきなり韓国焼酎ではなくて「とりあえず、ビール」という風になっているようである。多分、夏だからそうかもしれないが、一口飲んだ後は早速焼酎を注文して、それをビールに混ぜて飲んでいる。それを韓国では「焼酎(소주)」+「麦酒(맥주)」を短縮して「焼麦(소맥)」と呼んでいる。


                  (100年の伝統があるソルロンタン屋)

 また、繁華街には、巨大な貯蔵タンクを5個ほど設置して、ハウスビールなどを飲ませる大きなビアホールなどもあり、飲酒文化の多様性を感じた。
 昨日は昼から中華料理で56度の中国酒を飲まされ、別れ際に道の真ん中で握手をしようとしたら抱きつかれ、ほっぺたを合わせてきた。昼間だけに道行く人の視線を一斉に浴びた。
 ホテルが漢江のほとりにあるので、早朝ジョッキンぐで1時間びっしょり汗をかいて、昼酒と昨夜の「焼麦」を洗い流した。
 ここではノンアルコールの生活はやはり無理である。
  


 
 
  

2011年8月26日金曜日

「メダカの運動会」

 自民党の古参議員が民主党の代表選を揶揄したのが表題である。
 さすが、永田町の動きを的確に言い当てる。
 この「国難」を乗り切るための大改革を進めるには、やはり小沢しかいないような気がしてならない。もちろん、「党員資格停止処分」の解除などが必要ではあるだろうが、「小粒」の総理がバランスばっかり考えて改革の速度が鈍化するのであれば、副作用はきついかもしれないが短期的にはこの「痛み」を取り除く必要があるだろう。
 今回、代表選出馬候補の政策は外科手術をするのに麻酔の量をどれぐらいにするかだけを論じているような気がしてならない。
 問題は麻酔の量ではなくて、どこをどのように切り取れば患者が健康体になるかの判断である。
 そのことがまったく見えてこない。でも、小沢はそこをしっかりと見据えているようである。
 
 
 

2011年8月25日木曜日

「ウジョン(友情)カップ」2

  ラモスも来て、福島の子どもたちにサインしたり握手をしていた。
 韓国チームを引き連れてきた監督に久々に会って、話をして感じたことがあった。
 ナデシコジャパンの快挙もしかり、 先日の韓・日戦の内容と結果もあり、韓国少年たちの日本へのサッカー留学熱が非常に高まっているようである。
 その受け皿として当学園へ熱いラブコールを送ってきた。
 グラウンドはフットサルがようやくできるぐらいの広さに、サッカー部は存在するものの11名もいないという状況で「受け皿」にはならない。
 しかし、サッカーの原点は「路地裏での球蹴りではないか」と、別のコーチが力説する。
 さて、どうするか悩ましい。   
 

2011年8月24日水曜日

「ウジョン(友情)カップ」

 月曜日から夏休みが終わり、授業再開となった。韓国留学生たちも全員無事に戻ってきて元気な姿をみせてくれた。
 今週は来年度に向けた生徒募集の一大イベントである「サマースクール」が2泊3日で開催され、日本全国から20名近い入学希望者たちが学校と寄宿舎で過ごすことになる。
 昨年の参加者が6名程度だったので、約3倍近くになったが、生徒募集だけは蓋を開けるまでどうなるかわからない部分がある。
 さて、今日からは友人が主催する「ウジョン(友情)カップ」という少年サッカー大会に約65チーム、約2000名の小学生達が大阪の舞洲に集結する。
 今年は被災地の福島県からも50名近いサッカー少年とお母さんたちを招待した。
 韓国からも6チーム、そして朝鮮学校からも4チーム参加するこの大会を12年間、手弁当で運営しているこの友人の情熱というか「狂気」に不思議と巻き込まれてしまう。その一人に最近妻を亡くしたラモスルイもいて、彼も東京から駆けつけてくれる。
 今日は、参加者の水分補給やお弁当の手配などのボランティアで福島の子どもたちにボールを思う存分蹴ってもらいたい。
 

2011年8月23日火曜日

リビアと北朝鮮

 ついにカダフィ政権が崩壊となった。北アフリカの民衆蜂起が最も困難と思われたリビアの扉を開かせた。ただし、NATOの空爆という「支援」を受けてということがどうしても引っかかる。
 イラクやアフガニスタンの例をみてもわかるように、「独裁政権」を打倒するために他国の軍事力の介入が容認されてしまうと、「独裁時代」以上の犠牲を産み出している。
 「金正日政権」を打倒するために、日・米の軍事介入を認めることができるのかと言われればやはり「ノー」である。
 もちろん、リビアと北朝鮮を単純に比べることはできないが、今後「自由と食糧」を求めて北の民衆が蜂起したとき、関係国はどのような対応をするのか、そして自分自身はどうするのかなど様々なことを考えさせられた。

2011年8月22日月曜日

高校同窓会

 高校時代の友人が亡くなり、「偲ぶ会」があった。「悪友」たちが40人ほど集まり、私にとっては約35年ぶりの再会となった。膵臓癌の末期だったが、一切抗癌剤を使わず、半年間で90キロの体重が45キロとなって他界した。
 「死を迎えたのではなく、今を生き抜いた」という故人の妻からのメッセージに涙腺が緩んだ。 

 参加者の半数の20名以上は全く誰かわからず、約10名は顔と名前が一致しなかった。
 お互いじっと見つめながら、名前を確認しあったときは抱き合いながら酒を酌み交わし、35年間の空白を埋めようとした。
 増えたのが皺と加齢臭で、減ったのは黒髪という50代前半の悪友達たちだが、その場ではみんなが青年の輝きを放っていた。
 帰宅して早速高校時代のアルバムを紐解いた。不思議と顔を見ただけで名前がどんどんあふれ出てきた。
 この日だけはどっぷり高校時代の思い出に浸った。
 

2011年8月19日金曜日

スイッチオフ

 先週土曜日から今週月曜日まで大阪市内から40分ほどの標高1000mの山頂で過ごした。気温は20度から25度程度だった。何も考えず読書だけで時間を過ごした。
 昨日は東京で葬式があり、日帰りした。新幹線も節電らしく、関西電力管轄地域を越えて東電管轄地域に入った途端に設定温度を高くするとの車内アナウンスがあり、また都内のコンビニに涼を求めて飛び込んでも店内は暗くそして暑かった。
 はやり震災の影響をまず皮膚で感じさせる。
 故人は88歳の在日一世だが、参列者に同年代の人はおらず、この世代がどんどん減っていることを実感した。「東京時代」の先輩と式場で出会い昼食を共にしたが、50~60代の共通の悩みというか話題は子どもたちの「結婚問題」であった。既存団体の結婚相談所や同胞個人による業者には不信感があり、信頼できる仲間たちと情報を共有しながらボランティアでこつこつとお見合いをさせている。
 早速帰り際に「釣書」を2枚手渡された。

2011年8月12日金曜日

学校法人経営セミナー3

 最終回のセミナーテーマは「会議活性化のポイント」だった。毎回、8名前後というアットホームな規模であるが、たまたま名刺交換をした参加者が次女が通っていた高校の教頭先生でびっくりした。
 「娘さんのことはよく覚えていますよ。そして、お父さんには感謝しています」と言われ、またまたびっくりした。
 実は、入学式のときにいきなり「君が代」となり全員起立を求められたのであるが、私と妻だけ着席したままで抗議の意を表した。
 キリスト系の厳格な女子高でしかも国際科ということで、まさかこのようなセレモニーをするとは思いもよらなかっただけにショックだった。
 その直後に学校に抗議文を送ったら、学園長が「新校長が助成金のこともあり、強行したが、教職員の多くも戸惑いを感じており、早速是正するようにする」と答えていただき、それ以降の行事では一切「国歌斉唱」をしなくなったのである。
 今日の教頭先生によるといまもそれは続いており、「保護者の抗議」がそのきっかけになったと感謝されたようである。
 それにしても、小規模なセミナーの場で6年近く前の出来事がこのように教育現場で脈々と引き継がれていることを聞かされ正直嬉しかった。


2011年8月11日木曜日

完敗と除染

 負けるとは思っていたが、3-0は情けない。尼崎の焼肉店でテレビを独占しながら観戦していたのだが、「単細胞プレーのチャドゥリをいつまで出しとるんや、仁川空港に戻ったら腐ったキムチを投げつけなあかん」など同席していた某社長のヤジが凄まじい。
 韓国の趙監督が「W杯予選のいい薬になった」とコメントしていたが、深刻な危機感を抱いたにちがいない。やはり朴智星の抜けた穴が埋められていない。試合終了後、店長らしき人が「社長、悔しいでしょう」と聞いてきたら、「わしの父親の国とわしが育った日本のどちらも応援しているから、結果にはこだわってないねん」と平然と答える姿に、さすが商売人だと感心した。
 
 今日の朝日新聞朝刊1面トップに福島の公立学校の半数が校庭除染を実施したと報道されていた。
 同じ被災学校でもある福島朝鮮学校の生徒たちは新潟の朝鮮学校で避難生活をしていると聞いた。当然「校庭除染」の対象となると思っているのだが、「各種学校」ということで後回しにされる気がしてならない。除染された校庭で1日も早くサッカーボールを蹴らしてあげたい。
 

2011年8月10日水曜日

寄宿舎

 この3ヶ月二つ目の寄宿舎建築のために頭を悩ませている。すでに既存の寄宿舎は10月から空き部屋がなくなり、来年度からは新寄宿舎がないと生徒を受け入れることができない。
 学校近辺の土地を物色していたところ、ようやく候補地が出てきた。しかし、問題は資金繰りである。「学校法人」に金融機関は基本的に融資をしてくれない。そのため、誰かに建ててもらい、それを「サブリース(一棟借り)」するしかないのだが、この経済状況でそういう人はなかなか現れない。
 ところが、数ヶ月近く「交渉」をしていた後輩が金融機関からの融資を前提にして承諾してくれた。
 すこし、「光」が見えてきた。
 

2011年8月9日火曜日

「50男の怪気炎」

 「悪友」達と久々に一杯やった。会話の中心はやはり老後の生活と夫婦関係である。男同士の会話だけに本音のやり取りで各自の生活実態が浮き彫りにされた。
 ある部分では「自分ところは少し変わっているのかな?」と不安にさせたり、別のところでは「やはり同じなんや」という安心感というか連帯感を感じるという調子である。
 具体的な表現を記述できないのが残念だが、結論は全員「よう、離婚もせずここまで来たな」という実感と妻への感謝である。
 帰り際「妻たちも集まると多様な会話をもっとエネルギッシュにしているに違いない」とふと思った。
 この世代(50代前半)の夫たちは体力的かつ精神(経済)的な不安を抱えることが多く、妻たちは「更年期障害」等に苦しめられながらも逆に子育てなどで「失った数十年」を取り戻そうと活力に満ちている女性が多いように見受けられる。特に、山に来ている女性たちの姿をみているとその思いを強くする。まるで使用前と使用後のテニスボールのように「禿げ方」と「跳ね方」が違う。
 昨日の集まりは「悪友」の誕生日祝いが口実であったが、50歳前後の男4人が「イタ飯屋」で「祝杯」をあげながら「頭が薄なったとか、下半身の『切れ』が鈍くなった」などの生々しい会話に店の人と若いお客さんたちは耳を塞いでいただろう。次回は別の一人が9月に誕生日を迎えるのを口実にして再会を約した。
 
 

2011年8月8日月曜日

「初デビュー?」

 昨日「12月17日から韓国代表U13と日本代表U13の日韓戦を静岡で行うので参加するように」との連絡があった。
 今年の2月に代表合宿に参加してからはじめての対外試合デビューとなるかもしれない。(そのときの取材記事が韓国連合ニュースhttp://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=107&oid=001&aid=0004932890 に写真付で出ていたことを最近知った。)いつも寡黙な長男が、昨夜は気持ちが高ぶっていたのか遅くまでサッカーの話をいろいろとしていた。
 どのようなセレモニーになるのかはわからないが、やはり「国民儀礼」として「国旗国歌」への忠誠を表す敬礼か胸に手をかざすことになるのか、複雑な気持ちである。
 もしそのようなことになれば、多分、南北の「愛国歌」も日本の「君が代」の歌詞も知らないであろう在日4世の中学生が一瞬「国家」を背負わされたときの気持ちはどのようなものなのか興味を感じる。
 
 
 

2011年8月6日土曜日

「スイッチオン」

 久々にむき出しの「本性」を見せつけられた。こちらも売り言葉に買い言葉で応酬したのだが、それがいたくプライドを傷つけたようで普段とは全く違った言葉と態度で怒鳴り散らした。
 久々に戦闘モードにスイッチが入って、とことんやりあおうと思ったのだが、途中で馬鹿らしくなった。こんな人間と同じ土俵で勝負することが自分の魂を汚すことになるなと思って、無言で通した。
 しかし、なかなか寝付けない。自分の人を見る目が甘すぎたのかと自責の念に駆られつつも、相手の幼稚さに憐憫の情を感じたりと朝方までまったりとしてしまった。
 結論は自分がまだまだ未熟だったということである。孫子の兵法ではないが、戦う前に勝負をつけておくべきだった。
 喜怒哀楽の中でも「怒」と「哀」の表現は多様かつ個性的で難しい。だからこそ、そこにその人の人間性が集約されているのかもしれない。
 久々に、はらわたが煮えくり返る経験をさせてもらった。

2011年8月5日金曜日

学校法人経営セミナー2

 「子ども手当」が廃止されることになった。昨日、学校法人経営セミナーでお会いした大手学習塾の社長が「夏休みの入塾生がドンと減ってきている」とその影響が敏感に現れていると言われていた。
 年収960万円以下の家庭を対象にするよりは、年収額をもっと下げるべきである。
 年収1千万近い3,4人家族ならそこそこの生活ができていると私は感じるのだが、できるだけ低所得層に手厚くできないものか。現在でも低所得層の出生率が高いかどうかわからないのだが、「貧乏人の子だくさん」を前提とするならば、そこに政策の恩恵が行き渡るようにするほうが制度の趣旨にも合致すると思う。
 さて、昨日のセミナーでは「学校における人事制度改革」がテーマであったが、どのような制度を設けようが人を評価するということの難しさを改めて認識した。「良い悪い」だけでなく必ずそこには「好き・嫌い」という感情が入り込んできて、公平性と客観性だけでは判断できないところが「人事」にはつきまとう。
 講師は「評価制度がどんなに良くても、評価者がいかに評価するかによって公平性や納得度は大きく左右される」と述べていたが、「評価者」の人格と価値観が最も大切なポイントであることを学んだ。とにかく、「学校」というところは「企業論理」や「世間の常識」というのが馴染まないことが多すぎる。



 
 
 

2011年8月4日木曜日

「女性監督」

 ナデシコジャパンの優勝メンバーに500万円のボーナスが支給されることになった。サッカー協会としては当然のことだが、これを契機に女子サッカーへの抜本的な支援・育成体制が強化・整備されることになると思う。
 一昨日、少年育成サッカーの指導者と話をする機会があった。かれは、すでにチームのキャプテンを女子に任せているのだが、これからも日本の女子サッカーを強化する上において必要不可欠なことは「アメリカ・ドイツと同じように代表監督を女性(たとえば沢)にさせて、お金は出しても口ははさむな」という持論を展開していた。
 さて、今日は2回目の学校法人セミナーでテーマは「人事」である。教職員の評価は本当に難しい。企業のように業績や結果を数字である程度判断できればいいのだが、そのようにはいかない。
 たとえば忌野清志郎の「僕の好きな先生」のような教員も教育現場には必要で、管理職側から見たらだめでも、生徒にとってはなんともいえない存在感を放っている素晴らしい先生というのが必ずいる。(最近はあまり見かけなくなってきたようだが・・・)。このような先生ばっかりだと教育行政が滞ってしまい、学校運営が大変だが、全くいなくなると生徒たちの心が荒んでしまう。
 この、二律背反的な問題に今日のセミナーはヒントを与えてくれるのか期待したい。
 
 
 

2011年8月2日火曜日

同行取材2

 昨日の午前中は京都の介護施設「エルファ」に行った。在日1世の老人たちが日本の施設に馴染めず、孤独感が認知症等を悪化させている現実を目の当たりにして、キムチも食べられ、朝鮮民謡も歌い、そして職員とは母国語で会話ができる施設を、という一念で12年間運営されてきた鄭理事長や南事務局長のお話を伺った。
 最初は食器から蒲団に至るまで、ほとんどがもらいものからスタートして、車もエアコンのない中古車を2万円で譲り受けた。そのような努力が評価されたのか、2000年(?)には「毎日新聞福祉賞」をいただき、副賞の100万円で階段に車椅子を移動させる機器をようやく購入できたという。
 現在は日本人も含めて約90名が毎日ディサービスを利用している。
 そして地域に住む共稼ぎ夫婦の子どもたちにも放課後や夏休みなどに施設を開放して過ごせる空間を提供している。
 「ゆりかごから墓場まで」という福祉の理念を具現している人々たちの姿に韓国取材陣も胸を打たれたのか、予定時間を大幅にオーバーしてまで取材を続けていた。
 
 

2011年8月1日月曜日

同行取材

 土曜日から韓国某ラジオ局の取材に通訳兼ガイド役で同行することになってしまった。
 最初は断ったが 知人からの執拗な依頼で押し切られてしまった。
 一行は男性PDに女性放送作家、そして美人レポーターの総勢3名である。テーマは「家族の分化・解体そして再生」で、専門家と行政へのインタビュー、福祉施設での取材、そしてホテルの予約、観光案内のすべてを背負うことになった。
 ただし、テーマがテーマだけに同時通訳などをしながら勉強になり、また普段なら決して行かないような奈良観光にも行き、新しい発見もあった。
 
 特に、「大家族」から「核家族」そして「弧族」と変遷する社会変化の中で、個人・地域社会・行政そして政府はどうあるべきかなど「家族」というものをじっくり考えさせてもらったものの、行動が伴わない。
 妻の誕生日は当日間に合わず、1日遅れの朝にケーキでお祝いすることになり、相変わらずのブーイングである。

 
 

2011年7月29日金曜日

胎動

 南北対話に米朝と続き、そして国粋主義的な中井元拉致担当相が中国で北の朝・日国交正常化大使と非公式交渉という流れが表面化した。
 アメリカの中間選挙、韓国の大統領選挙、管首相の延命策などを考えると、やはり「北」の外交カードはポイント増に繋がるという政治判断であろう。
 北はそのあたりをしっかりと見透かしたうえで、したたかにそして緻密に戦略戦術を組み立てている。なぜか、「国益」が明確だからである。
 日本の「国益」はこうだとはっきり指し示して、外交をリードする政治家が現れない限り、日本はいつまでたっても尻馬に乗るか、「バスに乗り遅れた」状態が続く。
 そう意味で民主党最後の切り札は良くも悪くも「小沢」しかいない。「中井」という「毒」をもって日本国内の「毒」を制するという発想ははたして管首相から出たものか、そうであれば管政権の寿命は延びるだろう。
 
 

2011年7月27日水曜日

学校経営セミナー

 久々に2時間集中して勉強できた。テーマは「学校における財政健全化の方策」である。
 講師は税理士で中小企業診断士の方だが、開口一番「私は次世代に未来を伝えたいので、学校の発展に少しでも寄与したい」と単に、職業的義務感からだけでなく、自らの生きがいであると明言したことに、惚れてしまった。
 「少子化」の流れは25年後に現就学生徒数が4割減となり、どこの学校も生き残りに大変である。
 「財政状態・経営状況は『結果論』、つまり『通知表』と同じ・・・その結果には必ず原因があり、その原因とは、『日々の活動』そのもの・・・、結果をいくら共有しても、それを踏まえて『行動を改める』ことがなければ、計算書類に示される数値はいつまで経っても改善されない・・・まずは将来を計画すること。そしてその計画に基づいて行動すること。」という講師の最後の言葉がしっかり心に刻まれた。
 このセミナーがすべて無料ということが申し訳ないぐらいに、内容が充実している。
 次回は「人事制度改革とそのポイント」であるが、楽しみである。
 
 

2011年7月26日火曜日

セミナー参加

 「本国参政権」の啓発活動に奔走している韓国の教授と久々に会った。ようやく、政府側も民団側も重い腰を上げざるを得ない状況になってきているようである。
 来年の4月には国会議員選挙がそして12月には大統領選挙となり、初の投票まで1年を切った。
 これから少しは活気づくことが予想されるのだが、ハングルも読めず、韓国の政局も候補者もほとんどわかっていない多くの「在日有権者」の関心を高め、実際の行動に移すようにしていくのか課題は多いが、上記教授たちの活動には敬意を表したい。
 さて、後輩の税理士が勧めてくれた学校法人セミナーに今日から3回にわたって参加することになる。久々に「講義」を受けることになり、楽しみである。じっくり他人の話というか専門的な知識を習得することがこの数年間全くなく、行き当たりばったりで、付け刃的な雑学しか持ち合わせていない状態なので、しっかり腰を落ち着けて学習しようという気持ちになっているのだが、昨夜10時ごろに会って飲み始めた「赤坂一龍」の酒がだいぶ残っている。
 
 

2011年7月25日月曜日

来年の韓国選挙

 韓国の中央日報に下記の見出しの記事が掲載されていた。
  
 朝鮮総連5万人、韓国の選挙に北朝鮮が影響力を行使する?

一言で言って、荒唐無稽である。
 与党の支持率が下がり、大統領がレイムダック状態に陥ってることへの証左でもあり、相当来年の国会議員選挙と大統領選挙に危機感を抱いているのだろう。
 この記事通り、「在日韓国人」の海外投票率と関心が高ければいいのだが、現実はその反対である。
 せっかく勝ち取った民主主義でも、その上に胡坐をかいているようではどんどん腐食していく。それは日本だけでなくどこの社会でも共通である。
 「在日社会」に民主主義を根付かせるのであれば、まず、健全な「選挙文化」をしっかり定着させる必要がある。
 私も半世紀以上生きてきて、初めて来年「投票」ができる。この喜びをしっかり伝えるためにも、賢明な選択をしなければならないと肝に銘じている。


2011年7月22日金曜日

終業式

 学校は昨日が終業式で今日から夏休みである。生徒たちもようやく「解放」される実感がわいてきたのか、浮き浮きとした表情で登校している。
 北海道に関東、韓国に帰る生徒、そしてアメリカや中国に帰省する教員などいろいろな国と地方で夏休みを過ごすことになる。
 昨夜は台風で延期となった三重に行ってきた。P店の社長で当学園に子どもを通わせているのだが、その姉が学生時代の「民族サークル仲間」で埼玉で1ヶ月、そしてピョンヤンでも1ヵ月半近く過ごした旧友でもあり、人の繋がりの不思議さを考えさせられる。
 「在日社会」の狭さが、「縁」を近づけてるのかよくわからないが、数十年生きてくると偶然のように見える出会いも結局はそこに必然性が隠されているような気がしてならない。
 若くして社長になられたが80歳で現役バリバリの父でもある「会長」との確執というか葛藤で悩んでいる。裸一貫で事業を立ち上げ、さまざまな苦難を乗り越えてきた父の存在は畏敬の対象と同時に「老害」という副産物をもたらす。
 この世代間の葛藤と軋轢を埋めるものは何なのかとふと考え込んでしまった。答えは「なし」である。あるとすれば「時間」だけかなという気がする。
 帰りの近鉄特急はガラガラであった。以心伝心か久々に会いたい後輩から電話があったが、さすがに10時30頃から鶴橋で軽く一杯とはいかず、そのまま帰路についた。
 

2011年7月21日木曜日

「諦めない精神」

 ナデシコジャパンに7名の代表を輩出している神戸のクラブチームオーナーと電話で話をした。
 興奮がすでに収まっているのか、非常に冷静な態度で今後のクラブ運営を話されていた。
 まさか、ここまでフィーバーするなど誰も予想できなかったために、「想定外」のことがいろいろおきているらしい。
 特に、選手たちの「広告価値」がどんどん上がっていて、その権利関係などの整理等もあり、多忙を極めているようだった。
 10年前にこの世界に参与して、ようやく昨年リーグ優勝を果たし、そして今回の快挙である。
 このオーナーの「諦めない精神」が選手たちにもしっかり伝わったようで、普段から接している私としても他人事ではない。
 いつか、沢選手が学校に来てくれる日も遠くないだろう。
 
 

2011年7月20日水曜日

台風のおかげ

 昨日三重に行く予定をしていたがその時点ですでに暴風雨圏内に入っていたようで、先方から連絡があり「来れても、多分大阪に帰ることはできないでしょう」と言われ延期となった。
 東北地方を避けてくれただけでも感謝である。
 予定がすっぽりあいてしまったので、久々に「反戦・反核」をライフワークにしている先輩を誘い一杯やることになった。
 先輩は5月の連休に単身車で被災地に入り、決してテレビ画面では感じられない「臭い」を知らしてくれた。そして8月には毎年「広島・長崎」に行くことにしており、その間隙を縫って「沖縄の基地」で数日過ごす。
 この民族主義者の先輩が90年代に北朝鮮が核開発を放棄する変わりに「軽水炉建設」を受け入れることを米国と合意したときにも、先頭で反対を訴えた。(それもほとんどの人が北朝鮮の対米外交を賞賛しているときにである)。大学で物理学を専攻しただけに「原子力発電」の怖さを原理的に理解されていたようである。長崎と広島には愛車の1400ccバイクで向かう、「男前」の先輩である。
 今度沖縄に連れて行ってもらうことにした。
 

2011年7月19日火曜日

先輩からの贈物

 宅急便で大きなものが送られてきた。開封すると額縁に収まった絵画であった。
 5年前から「筋萎縮症」を患い、闘病生活をしている先輩からであった。どうにかまだ動く右手だけで精緻な水彩画を数十枚以上描き続けている。妻に頼み、家族の写真を移動させて一番いい場所に掲げた。
 先日東京出張の際にお見舞いに行ったのだが、そのときにいつか贈るからと言っていた。(言葉が話せないので筆談だった)
 添えてあった手紙にはいま声が出るように筋肉のトレーニングをしているから、すこし出るようになったらカラオケに行こうと書かれていた。
  そして描かれているつつじの花言葉は「恋の喜び」である。たぶん、看病している奥さんへの気持ちを私に伝えてきたのだろう。
 この先輩もナデシコジャパンしかり、伝わってくるのは最後まであきらめない生きざまである。
 
 

2011年7月18日月曜日

眠気一蹴

 ナデシコジャパン素晴らしかった。3時から録画しておいて、朝方全くニュースを聞かないようにして見ようとしたのだが、自然と3時前に目が覚めてしまった。
 たぶんアメリカには勝てないだろうが、どこまで善戦するのかという気分で見ていたが、途中からは眠気も飛んでしまい、「ひょっとしたら」という思いが強くなってきた。
 そして、沢の同点打にPK線と続き、一気に興奮が最高潮に達した。
 沢が小学生のときには「女子」ということで、大会出場を拒否されたり、アメリカチーム在籍のときは同棲している米国人男性から「サッカーと俺のどちらを取るのか」と迫られ、前者を選んだエピソード等が思い出されて、涙腺が緩んでしまった。
 ハンディを自ら背負いながらも、それを跳ね返してきた彼女の人生への最高のご褒美が今回の世界一である。そのことが何より嬉しいし、被災者をはじめとする多くの人々を勇気付けるに違いない。
 朝遅く起きてきた長男がテレビのニュースをじいっと見ながら「沢の眉毛って墨を入れているのかな?」と聞いてきた。馬鹿なことをいうもんだなと思いながら、私もじっと彼女の目元を凝視してしまった。

 

2011年7月15日金曜日

「気骨人」

 2回にもわたって学校を放映してくれたディレクターと飲んだ。
 今は、被災地の取材で福島と大阪を毎月4往復するという生活を送っている。大学時代は山岳部でヒマラヤの7800メートルまで登っており、また就職後はドイツ支局にいながら4年近く、クウェートとイラクの取材でずっと死線をさまよってきたというツワモノであるが、その温厚で礼儀正しいたたずまいにある意味戸惑ってしまった。
 福島の放射能問題については「事実の報道」と「被災地の支援」という二律背反の状況をどう伝えるか深刻に悩んでいた。
 その場に8月の大阪でのサッカー大会に福島のサッカー少年40名を招待したクラブチームの監督もいたのだが、彼によると「被災地にスパイクやボールを送っているが、ほとんど倉庫に眠っている。放射能問題もありサッカー自体ができない状況だ。この問題は数百年単位で対処しなければならないので、この大会が続く限り毎年招待する」と熱く語っていた。
 ディレクターによると芸能人ボランティアの取材要請についても「一回ポッキリでは意味がない。継続性がなければ売名行為として結局その芸能人が指弾されることになることをはっきり伝えると、ほとんど引いてしまう」という裏話も聞いた。
 久々に気骨のあるジャーナリストと「サッカー人」に会った。

2011年7月14日木曜日

女性の強さ

 昨日は朝から来客のラッシュでさすがに、夕方にはクーラーのせいか偏頭痛が出てきた。
 来客の中では翻訳家として第1人者である韓国梨花女子大学の金順姫教授のお話が興味深かった。大阪生まれの在日2世であるが、韓国人夫との結婚を契機に、数年をアメリカ、そして今はソウルが生活の拠点となっている。
 日本人に韓国の悪口を言われると反論し、そして韓国人に日本の悪口を言われると反論しながら生きてきて、どういうわけか日本に帰ってきて、大阪弁を聞くと一番気持ちが和むとおっしゃる。後で、こっそり同行者に年齢を聞くと70歳だといわれ驚いた。
 女性の社会的進出が制約され、家庭内の抑圧がひどかった時代に、自らの信念と努力で「道」を切り開いてこられたオーラを全身に浴びたせいか、「偏頭痛」もその間は鳴りを潜めた。
 そして、明け方には女子ワールドカップで日本が快勝で決勝進出するのをみて、あらためて女性が強くなったということを実感した。というよりは、男が弱くなったというのが本質であろう。
 

2011年7月12日火曜日

「豪雨」

 韓国全土が豪雨でソウル市内の漢江も水かさも増し、川辺の公園や付帯施設も水没していた。
 昨夜のニュースではすでに16名の犠牲者が出ていると伝えていたが、ソウルから数十キロにある北朝鮮の地も当然被害が出ているだろう。
 田植えの時期が済み、ようやく芽を出したであろう稲やその他の耕作物にも相当な被害が予想される。
 どこまで「人災」でどこまでが「自然災害」がわからないぐらい荒涼とした風景が思い浮かんでしまう。
 毎年恒例のように「食料援助」を国際社会に求めているが、反応が芳しくない。韓国と日本ではコメ余りで備蓄米の倉庫維持費だけでも年間数十億円?ともいわれている。
 食糧(人道)支援が短期的には「体制維持」に利用されるかもしれないだろうが、長期的には「体制変化」に繋がるという視点をなぜ日本と韓国の政治家やマスコミはもてないのか不思議でならない。
 まだ「被災者」でもある「北の民衆」の苦痛が続く。
 
 

2011年7月11日月曜日

梅雨と登山

 八経ケ岳(1915m)という近畿最高峰に登頂した。朝5時に大阪を車で出発して、一路奈良県の天川村まで約2時間。登山口の駐車場にはすでに4台ぐらいの車が止めてあった。
 午前中の天候は快晴で登り始めて約5時間で頂上に到着。展望は素晴らしく、大峰山系の山容がすべて見渡せる。


 この時期は「大山レンゲ」の見ごろだということで、この花を目当てにくる登山客で群生地は少し「渋滞」が発生していた。


 頂上からの下山後、最高の天気に恵まれたと思ったら「ゴロゴロ」と雷の音が鳴り出し、その40分後には雷雨となった。
 梅雨明け直後の山は雷雨が発生しやすい。30代の後半、「剣岳」の頂上間近の「カニの横ばい」という難所の鎖場で凄まじい雷に見舞われた。掴むことができるのは「鎖」だけで、それを離してしまうと数百メートルの谷底までまっしぐらという標高3000メートル近くの断崖絶壁の場所だった。回りにさえぎるものがないだけに、雷の音が耳元で聞こえ、強烈な「電磁波」を全身に感じる。そのときはさすがに「死」を覚悟した。
 前後数名のパーティは下山を始めたが、どちらにせよここに雷が落ちたら結局死を免れそうもないので、単独行の私はそのまま頂上を目指した。そして、頂上で「遺書」(家族一人一人へのメッセージ)を書き残した。
 あれから10数年の歳月が流れたが、まだ生かされているということは「悪運」が尽きていないということらしい。
 ところで問題は体重がどれだけ減ったかである。
 

2011年7月9日土曜日

減量作戦

 予想通り梅雨明けが早かった。毎年7月20日から7月25日の間が相場となっていたのだが、我が家も一昨日から電力消費がアップしている。
 今年の夏はどのように節電をしていくか、真剣に考えなければならない。
 体も「節電」しなれければと思い、数週間前から努力しているつもりだが、昨日体重計に乗ると、減るどころから増えている。 さっぱり理由がわからない。
 夏場に少々太るのはいいことだと考えることにしたいのだが、10月末のフルマラソンが近付いているので、それまでに3~4キロは減らさなければ、「完走」が難しい気がする。
 仕方ないので、早速明日、先輩と大峰山系を上ることにした。歩行時間だけで8時間なので、相当きついのだが、1日で1,5kは減らせるだろう。(登山後大食いをしなければの話だが・・・)
 
 
 
 
  

2011年7月8日金曜日

「宗派」

 某団体内で新興宗教がはびこり、幹部連中の子どもたちもその信者となるという事態にまで広がりを見せた。そして、どういうわけかそれを広めたのがまた組織の女性幹部で、表面化してからはその夫は自殺をするという事件が起きた。
 思想的統制が非常に厳しい団体内での事件だけに、その衝撃がすさまじい。
 ある意味、新興宗教団体の幹部が別の新興宗教を広めようとした「宗派」活動である。
 「信者」自身が自ら信じてきたことの虚構性と欺瞞性に気付きながらも、自らをだましだまし布教活動を続けてきたことが、今回の事件の背景にあるような気がしてならない。
 信念なり生きざまをみずから否定したりすることはなかなかできないものであるが、どこかでその間違いや問題点を正そうとバランスを取ろうとするときには、よりインパクトのある「思想」や「宗教」にかぶれやすいようである。
 そう意味ではその某団体には、まだ良心をもった健全な信者が残っているということになる。
 まずは「教祖様」を変えるところから団体の存続を図ってほしい。
 
 
 

2011年7月7日木曜日

あえて管がんばれ。

 簡単に辞職した最近の自民党の総理大臣たち、四面楚歌でも首相の座から降りない管総理、どちらもマスコミは批判しているが、最近の「管バッシング」にはどす黒いものを感じる。
 「原発」から「脱原発」へと日本のエネルギー政策を根本的に転換させようとする首相に財界、官僚(経産省)、自民党、民主党の一部が猛反撃を開始しているのが事の本質であろう。
 昨日の九州電力による「やらせメール」をみても、日本国内を覆っている「原発利権」の根深さを感じぜるを得ない。
 結果的にはそこにメスを入れようとしているのが、孫正義である。アメリカをバックに日本の閉鎖的な市場に風穴を開けた彼が、今度は韓国と中国をも味方に引き付けて、「国策」の根幹に触れるところまで踏み込もうとしている。
 命を取られる覚悟ができているのかもしれない。先日の李明博大統領との会見もそのセーフティネットの一環だろう。 
 すでに昔からこの国土にはびこっている「政・財・官癒着構造」という「放射能汚染」をすこしでも除去できるのであれば管首相には粘ってほしい。最近そのような覚悟を彼の表情から読み取ることができ、「薬害エイズ」時代の姿をすこし彷彿させる。

2011年7月6日水曜日

聞き役

 国内最大手の生命保険の解約をしにいった。淀屋橋の本社は立派なビルでさすが国内最大手の保険会社だけのことはある。
 手続き終了後に今日の接客についてのアンケート用紙を渡されたので、、「目の前で記入させられたら、『よくない』に○印は書き込めないでしょう」と言ったら、「その通りです。社内でも議論されているんですけど・・・」との弁解。「風通しの悪い会社みたいですね」と嫌味を言ったら苦笑いをするだけでアンケート用紙をあくまでももらうつもりである。仕方なしにすべて「よい」に○をつけて手渡したが、正直気持ちがすっきりしなかった。
 その後エコマンションのオーナーで建築家の先輩と久々にお会いして、屋上にある40畳ぐらいの芝生で軽く飲み、その後場所を移して、11時過ぎまで約6時間近く話をした。
 3級障害者で韓国での差別体験、そして日本への留学、そして事業立ち上げのかたわら次世代育成の社会活動という波乱万丈の人生を熱く語っておられた。
 興味深かったのは震災当日の日は東京でセミナーを受けていたのだが、地震の揺れを感じた瞬間に参加者全員を非常階段から全員屋外に誘導し、その後すぐにコンビニに駆け込み、手袋と懐中電灯そして2,3日の食糧を買い込んだらしい。
 このあたりのサバイバル感覚はやはり韓国での軍隊経験が生きているのだろう。
 約6時間ほとんど聞き役だったが、閉店間際に「今日何か用事あって来たのよね?」とこちらの要件に気づいてくれた。
 
 

2011年7月5日火曜日

被災地のサッカー少年

 昨夜長男が韓国から戻り、久々に「離散家族」状態が解消した。
 この間中3が釜山への修学旅行、中1がソウルでの研修があり、学校全体も閑散としていたがようやく活気を取り戻すことになる。
 日曜日には待ち構えていたように友人から早速電話があった。
 毎年夏に開催している小学生サッカー大会に被災地から70名の少年たちを招待するために走り回っているので、「手助けしろ」ということである。
 昨年はボランティァで3日間猛暑の中、給水係と雑用で活躍したのが評価されたのか今年も駆り出されそうである。
 約2000名の韓国・日本・在日の少年たちが一堂に会する大会を13年近く手弁当で続けている。
 被災地になかなか行けないもどかしさを被災地のサッカー少年たちをお世話することで少しでも解消できればと思い、当日のボランティアはもちろん、寄付(広告)やマスコミの事前宣伝まで担うことにした。
 その知人のブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/fc_vejitto/51897949.htmlがあるので、一度ご笑読を。

2011年7月3日日曜日

帰日

 昨夜日本に戻ってきた。ロスの気候に比べると大阪はミストサウナのようである。少し時差ぼけはあるが、25年間の罪滅ぼしはおつりが出るほどだったと自負している。
 20年ぶりの気の乗らない米国であったが、やはり日本にいると感じることのできない多くの刺激をもらった。
 普段何気なく使っている「多文化共生」や「貧富の差」、そして「差別と人権」と「祖国と居住国」などアメリカ(ロスアンゼルス)社会の中に身をおくことによって多角的な視野を与えられたようだ。
 とくに、これからは「越境」する人々がますます増えていくことによって、「国家と民族」が相対化され、当該政権の政策によっては間違いなく社会の活性化に繋がることを確信した。
 それは自らの家族も同様で、子どもたちは5~10年後、日本だけでなくアジアや欧米に生活と活動の拠点を求めていくだろう。そのときは何が「家族」を結びつけるのだろうかなとふと思った。
 そして、そのアジアの一員である日本は「再生(活性)」するのだろうか?今日、久々に6日分の新聞を読んだ限り、どうしても悲観的にならざるを得なかった。
 

2011年7月1日金曜日

コリアタウン

 コリアタウンのホテルに移動してからは、ほとんど英語は必要なくなった。
 ホテルの玄関に入った瞬間、全員が異口同音に「ここは鶴橋の匂いがするな」と言わせるぐらいに、ニンニクとごま油の懐かしい香りがロビーに充満していた。

 前述した在米歴30年の義兄の友人が、「20年前のロス暴動以降、在米コリアン社会側も黒人・ヒスパニックへの偏見と差別をなくし、コリアタウンの多文化共生に努力している」と話されていたが、韓国人経営のホテルや食堂にはヒスパニックの人たちを多く見かけたので、積極的に雇用をはかっているとの印象を受けた。(意地悪い見方をすれば、韓国人よりも低賃金で雇用できるということになるのだが…、それでも半歩前進であろう)
 ただし、給仕のみでオーダーの受付や、清算にはノータッチで、リカーショップのレジはプラスチックで覆われ、JRの「緑の窓口」状態だった。
 あとは、教会の多さとその大きさにも驚いた。アメリカでもっとも熱心なクリスチャンは在米コリアンと言われる所以がよくわかる。
 今日は朝から空港に向かうまで2,3時間あるのでアメリカでの最終日をじっくりコリアタウンを散策して、五感でこの街と人を観察しよう。
 
 
 
 
 

米国での初ゴルフ

 UCLAに招聘中の義兄の友人に誘われてロス市内のど真中にあるゴルフ場でプレイした。
 いわゆるアメリカンスタイルで、12時ごろいきなり行って、受付を済ましたら、レンタルのゴルフクラブを借りるだけ。後は、1~2人用の電気カートを借りるか、手動のカートを引っ張るかを決めるだけである。料金は出していないので後で確認したら、日本円で約3000円程度である。昼ごはんはレストランでテイクアウトしたサンドイッチをつまみながらの18ホールを一気にスループレーというスタイルである。
 日本のつぶれかけのゴルフ場をこのスタイルで経営したら再生できるのではないかなとふと思った。
 プレーヤーは前も後ろも韓国人で、その後は中学生か高校生らしき黒人、白人、韓国人のメンバーである。
 中・高校生らしき韓国人少年と話をしたら、「ゴルフ留学で韓国から来て、2年近くなる」と話していた。兄と母親が同行しており、父親は韓国に一人残り、せっせと働いて家族のために仕送りをしているいわゆる「キロギアッパ」である。
 さて、今日からはホテルを移動して、130万人人口を抱えるコリアタウンでの宿泊である。
 
 

2011年6月30日木曜日

ホストマザー

 娘の通う語学学校に寄ってから、75歳の白人女性のホストマザー宅へ向かった。長年ティファニーで宝飾デザイナーをしていたらしく、家の中の装飾品が素晴らしい。

 一番の関心事は娘がこの約2カ月でどの程度英語が上達しているのかであるが、正直驚いた。
 普通に喋っている。やはり、生活を共にするということが上達の近道なのか、日常会話は何ら不自由がないようだ。
 妻も「一夜漬け」の英語を喋ろうと努力しているのだが、飛びだす言葉がなんと「韓国語」である。
 本人は「外国語」を喋らないという強迫観念からか、極度に緊張しているようで、「これは」という表現のとき、「This is」が「이것은」、「AND」が「그리고」となっているのである。
 多分、語学をつかさどる脳のキャパシティが限界を超えていたのだろう。これには一同大笑いしたのだが、キョトンとしているホストマザーに妻の姉が早速同時通訳してくれ、また爆笑の渦となった。
 初めて現地の白人女性と3時間ほどランチを共にしながら、会話をしたが(もちろんほとんど義姉の同時通訳)、「原発の放射能汚染」への心配が尋常ではなかった。
 私が「一度日本に来てください」と外交辞令のつもりで言ったが、やんわり断られた。
 

2011年6月29日水曜日

「在日」から「在米」へ

 空港ロビーでは30年前に日本からアメリカに移住した義兄の友人が出迎えてくれた。
 現在は当然アメリカ市民権を取得しているが、「韓国籍」も放棄していないし、4年に1回は家族が住む日本に戻るので、「特別永住者」でもある。そして本籍は現在の北朝鮮地域である。
 ロスではChinese,korea,ヒスパニック、黒人とそれぞれがコミニティを形成していて、その最大勢力はコリアンであるが、最近はやはりチャイニーズとインドの勢いが凄いらしい。こういうところにも国力というか経済力が現れるのがおもしろい。
 ホテルのチェックインには時間が早いので、早速、海辺に連れて行ってもらった。桟橋で不思議と釣竿を垂れている人たちはヒスパニック系の人たちばかりで 、白人は砂浜で読書か、サーフィンを楽しんでいた。
 夕食ではUCLAにこの4月から1年間滞在することになった、同じく義兄の友人で、「在日2世」の客員教授夫婦と私の娘も合流して、興味深い話をいろいろと聞かされた。
 ここロスアンゼルスは数百年前まではメキシコ領であったので、サッカーの試合などがあると、ヒスパニック系の市民たちが大挙押し寄せ、総立ちで応援するらしい。「奪われた土地」へのうっ憤をサッカーで晴らしている。
 なにかそこにはサッカーの「日韓戦」に対する「在日」の思いと共通するものがあるのだろうか。
 さて、明日は娘がお世話になっているホストマザー宅を訪問して、ご挨拶をすることになったのだが、妻がおもむろに英会話の本をとりだしながら、ぶつぶつと呟きだした。

入国審査

 関空からソウル、そしてソウルからLAまで10時間30分。義兄夫婦も一緒なのでなにかと心強い。
 特に、妻の姉は英語と韓国語の通訳・ガイド資格までもち合わせているので、鬼に金棒である。
 しかしながら、入国審査では約20年前に「スッタモンダ」があったので、ひょっとしたら入国拒否かもという不安が一瞬頭をよぎる。
 両手の指紋、そして眼紋(?)の機械が置かれていて、一人一人入念に審査を行っているので、長蛇の列である。 
 目の前の担当官は強面で、質問を投げかけたりで、きびしい表情を全く崩さないので「イヤダナァー」と思っていたら、インド人の母娘が割り込むような形というかエスコートされるようなかんじで、突然、最前列にやってきて、旅券をその担当官に提出したのだが、拒否されて別のカウンターに行かされるというハプニング。妻は横で完全にフリージング状態。
 いざ、私と妻の時になって、突然別のカウンターに入った審査官が担当者となった。温厚そうな年輩の方で、質問を2,3投げかけられたが、ゆっくり話しかけれくれたので、錆きった英語で応答して無事通過となる。この間、約1時間であったが、非常に長く感じられた。(続)
 
 

2011年6月27日月曜日

渡米

 今日から1週間「米国」に行くことになった。「銀婚式」ということで長女の留学先であるロスアンゼルスに滞在するのだが、気持ちは全くたかぶらない。
 密かに東南アジアあたりに行きたかったのだが、娘に会いたいという妻のたっての願いを断ることは不可能である。
 25年間の償いだと思えば仕方ない。
 土曜日から長男は学校の研修で韓国に行ってしまい、次女のみを残していくのが心配であるが、逆に責任感が強まることを期待するしかない。
 20年ぶりのアメリカであるが、唯一の楽しみといえばコリアタウンぐらいである。